ガンガン照りでカチカチのネガであった。
どの写真も模型の参考に撮ったようだ。
モノクロ写真では分からないが、当時は木造客車ホハフ7に三重交通のクリーム/緑ツートンが残っていたり、DC121は濃淡グリーン、2両のキハは濃淡グリーンのツートンで赤帯が入っていたりで、旧カラーリングが残っていた。
撮影:1962年夏
DC121
朝顔カプラーの楽しさ。
最後尾のハフ3のオープンデッキ風景を見ると、2軸台車の振動とジョイント音が聞こえてきそう。金平の次はこの沢駅
西大野の列車交換。 キハ1+ハフ1
8 件のコメント:
この写真が撮影された時、私は1歳でしたが
14年後中学生になって尾小屋を訪問した時も
木造客車と塗装以外は変わっていなかったのが
今思うと凄いです。
生きる化石みたいな鉄道ですねw
にぶろく さん
この写真の14年後とは1976年で、尾小屋鉄道の最後の時代でしたね。
1977年3月の廃線まで、ほんとうによく生き延びたものです。
非電化ナローは1970年頃までに殆ど消滅してしまいましたが、
革新的な1970年代を昔のままで走り続けた尾小屋鉄道に敬意を表します。
コメントありがとうございます。
尾小屋の続編も期待してます!
私にも尾小屋の暑い夏がありました。
この写真の15年後、廃止後のレール撤去のため
DC122が動いているという
情報を聞きつけ夏休みに訪問しました。
太陽がカンカンに照り付ける中
数人の作業員を乗せたDC122+無蓋車が
金平駅を拠点に黙々と働いていました。
撮影の合間に木陰で休みながら
春の廃止時の喧騒に比べて随分と静かだなぁ、
などと思ったのを覚えています。
にぶろくさん
尾小屋はこれで23篇目にもなりました。
尾小屋の記事もそろそろ終わりかなと思っています。
23篇にもなった尾小屋は最も訪問回数多い路線でした。
私もにぶろくさんと殆ど同年代ですが、奇しくも尾鉄を訪問したのも同時期でした。
中学生でしたから、時間とお金の限界から『遊園地前』までの乗車でしたが…遊園地どころか何もないのに驚き、どうりで、車掌さんだか乗客の誰だかが怪訝な顔をして「あんな所で降りるんか?」と言っていたのが後になってわかりました。
写真を撮って、当時文通していた人(女の子)に送ったら、「日本にもまだこんな所があったのですね!」と返信がありました。
苦笑ものの懐かしい思い出です。
esehokuさん
国鉄のSLが消えて「最後の非電化軽便」尾小屋を訪問したのは、
当時中学生くらいだったファンも結構いたようですね。
esehokuさんも貴重な体験をされたと思います。
その頃、私は何をやっていたのだろうか。
子供が生まれても仕事のことで頭がいっぱい、
家庭を放り出して仕事が一番きつい時代でした。
鉄道趣味のカケラもありませんでした。
しばらくぶりに訪問させて頂きました。
幼稚園の時、小松市に住んでたことがあります。
尾小屋鉄道という響きだけで、懐かしい感じがします。
黒ユリさん
お久しぶりです。
浅野川線では内灘騒動があったことを教えてもらい、ありがとうこざいました。
おかげで浅野川線が大いに盛り上がりました。
内灘の前は小松市にお住まいでしたか。
今はなき尾小屋鉄道は多くの車両が大切に保存され
動態保存があり、これほど幸せな地方私鉄もないと思います。
地元の尾小屋鉄道に対する熱意がとても強いのでしょう。
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