真夏の頸城鉄道を浦川原まで往復し軽便を存分楽しんで新黒井に戻って頸城の構内を撮っていると、遠くから甲高い汽笛が聴こえ小さなBタンク蒸機が現れた。この日最後の予期せぬ信越化学の蒸機との出会いというオマケに大満足し、今夜の宿となる夜行列車に乗り込んで乾杯となった。
信越化学工業直江津工場の1号機
輸入機に較べると外観が平凡な国産(日車製)Bタンク
D50等が次々やって来るこの頃の信越本線は蒸機天国であった. 黒井
頸城鉄道新黒井駅の向こうに信越本線の蒸機の煙がのぼる.
手入れが行き届いたこの頃の頸城鉄道は美しかった.
手入れが行き届いたこの頃の頸城鉄道は美しかった.
一日の撮影を終え暮れゆく頃
8 件のコメント:
今回のお写真に象徴されます様に、まるで小生には竜宮城もあわやという作品を先輩諸兄から見せつけられ、現在のブラック企業も真っ青という過酷?なバイト資金で回った、まさしく貴兄の10年落ちの北陸路。
中小私鉄のSLはとうに消え、レールも錆び枕木は雑草の肥やしとなり、ほとんどの駅舎は無人化し廃墟と成り果て、残る本命の国鉄SLは見るも無残な「団結号」。
それでも、あの時に行って良かったのであります。竜宮城にこそ間に合いませんでしたが、確かにそこに、今は消え去った鉄路があった瞬間に少しでも立ち会えたこと、先輩諸兄には深く感謝しております。
私が訪れたのは昭和42年で
信越化学の蒸機の存在は
知っていてのですが見掛けませんでした。
工場へ行けば良かったのですが
時間が無く諦めました。
有難く拝見しました。
Namikiさん
今までNamikiさんからよくコメント戴いた「10年の違い」をヒントに昨年秋に母校で講演会をやりました。
国鉄も中小私鉄もこの昭和40年頃を境にいかに変わったか、その事例として1960年代前半の軽便鉄道を取上げてみました。
1960年代の日本は高度成長期の真っただ中、あの時代を過ごしていた私にとってはそれが当たり前で何も感じなかったのですが、鉄道に限らずあらゆるものが変化し新しくなって多くのものが消え去ったのですね。
日本が物凄い激変の時代であった事を今になって感じとりました。鉄道趣味の美味しい時代を過ごすことができたのですが無視してしまった対象があまりにも多過ぎて後悔ばかりです。
頸城鉄道にしても国鉄接続を先に切るという、まるで全廃予告の
ような廃止の仕方しましたもんね。
変化の時と言ったら時代問わず常にそうでしょう。
今この時だって「2014年にはまだ国鉄形が走ってたんだ!」
「今度廃車になる◯◯系がデビューしたのがこの年なのか」
なんて羨ましがられる日がいつか必ずやってきます。
当たり前に見られるもの・当たり前に見られる景色を地道に
記録するのが如何に大切で貴重な体験となるのかを、
先輩諸氏の写真を拝見するたびに感じています。
直江津工場1号機の鮮明な写真を掲載頂き有難うございます。後部炭庫側のディティールが解る鮮明な写真に初めて接しました。もし2号機も撮影されていましたら是非公開をお願いたします。
常夜燈さん
訪問された昭和42年は頸城鉄道部分廃線が1年後に迫っていた頃ですね。私は昭和43年夏に訪問しましたが廃止直前の新黒井駅はかなり荒れ果てていました。
信越化学の1号蒸機のことは何も知らず、臼井茂信氏の「機関車の系譜図3」の本を開いたら出ていました。1970年に直江津の交通公園で撮られた写真がありましたが昭和42年にはまだ動いていたのかも知れません。
影武者さん
今の当たり前を地道に記録しておくのが如何に大切か、その通りと思います。
昔のフィルムカメラと違って撮りたいだけ撮れる今は幸せです。
関心無い対象も将来は見方が変わるのでいろいろと撮っておくと後で楽しめるでしょう。
それと車両は脇役で時代が判る風景を背後に撮り込んでおくことが肝心と思います。
プロが言う鉄道写真の撮り方なんて私は考えた事もありません。
匿名さん
黒井で信越化学直江津工場の蒸機を撮ったのは1号機だけでした。
残念ながら私は2号機についてその存在すら知りませんでした。
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