金沢郊外を走る北陸鉄道金石線に写っていたレトロなスタイルのクルマ。
終戦直後の東京赤坂あたりでは駐留軍が乗っていたダッジが多かったそうです。
そんな終戦直後のクライスラーのダッジが金沢で生きていたのか?
だいぶ前のことになりますが、この写真を見てt7marimoさんが調べてくれました。
彼の調査によればこのクルマはダッジ1953年型に間違いないようです。
1953年型 Dodge Coronet 4-Door Sedan
このダッジ1953年型が生産された頃は日本の自動車産業が本格化する10年ほど前。この頃日本で走っていた高級車はこんなスタイルの外車が多かったようです。
東京の1962(昭和37)年秋. 杉並線 青梅街道淀橋警察署前.
外車のスタイルを踏襲したような国産車タクシー
外車のスタイルを踏襲したような国産車タクシー
東京の1963(昭和38)年秋. 杉並線 青梅街道
国産車にも勢いが出始めた頃
国産車にも勢いが出始めた頃
金沢の1964(昭和39)年大晦日. 兼六園下-橋場
繁華街を除けば車の姿は極めて少なかった.
繁華街を除けば車の姿は極めて少なかった.
背後に写ったアメ車には何とタイヤが着いていない
金沢の1964(昭和39)年大晦日. 繁華街に大衆車の賑わい
この頃の日本はこれからの豊かさへ最も希望溢れる時代であった.
この頃の日本はこれからの豊かさへ最も希望溢れる時代であった.
6 件のコメント:
北鉄金石線は間に合わなかった、悔しい思いをした線です。軌道線で全線路肩を走り救助網やフェンダーを装備していたとか。
あ、テーマはクルマでしたね。軌道線の撮影にはクルマが邪魔になったですが、今になると時代が見えて面白いですね。
Cedarさん
金石線は「なんだこれは!」 とほんとうに珍奇な車両ばかりで、
もっとフィルムを惜しげなく使って記録すべきでした。
あの頃は私も路面電車を撮る時はクルマが邪魔で仕方なかったものですが、
今になってみるとつまらない撮り方をしたものです。
邪魔で仕方なかったクルマが何十年も経つとこんなに楽しめるとは思いもよりませんでした。
大晦日の金沢の風景、金石線も市内線もいいですね。
私はどちらも見れませんでしたが、金石線の風景は私の地鉄電車の原動力になった鉄道風景の一つです。
道路脇をのそのそ行く大型電車ちダッジ…
是非再現したい鉄道風景です。
chitetsuさん
魅力溢れる金石線風景を是非とも再現して下さい。
どこまでも一直線に延びる金石街道の端っこを走る金石線風景の続編をやりたくなりました。
金石線は沿線風景が平凡なのに独特の雰囲気がありましたが、
車両が魅力的であるだけでなく、金沢の土地柄のせいもあるのかも知れません。
katsuさん、始めまして。
思わずアメ車に反応して書き込みました。
鉄好きと共に車好きですから、
この当時の写真を見ると必ず鉄道車両の周囲も、
細かく見てしまいます。
トラックやバス、商店や電柱、信号機まで。
昭和20年代後半に輸入されたアメ車は、
10年越えの昭和30年代後半には相場が安く、
買い手が居たみたいですね。
もっとも3ナンバーだから税金が高く、
庶民が気軽に所有出来る訳では無いですが。
これら10年越えのアメ車を税金対策で、
ピックアップトラックに改造したのも、
たしか昭和30年代だったはずです。
兼六園下-橋場の右側にアメ車が見えますが、
前後輪が無いように見えますね。
車体の下、後輪前には木枠が挟まってるような。
昭和35年36年頃まで戦前に輸入されたアメ車などが、
以外と使われていたことが各種写真で確認出来ます。
そして国産車が増えると共に戦前から使われた車が、
路上などに遺棄され始めたのも昭和35年36年以降、
兼六園下-橋場のも路上に遺棄されたのかと思いましたが、
デザイン的に10年を越えて無い車種なので、
タイヤ盗難かも?なんて想像しました。
昭和30年代はアメ車のタイヤやホイールキャップ、
車のパーツを扱う店に持ち込みで買取って貰うと、
高く買取ってくれるので、良い小遣い稼ぎになったそうで。
マシュさん、はじめまして。
戦後日本のアメ車にまつわる面白いお話ありがとうございました。
いや~驚きました。金沢市内線の背後に写った外車にタイヤがないとは! あの画像からよく分かりましたね。
原画からアメ車だけ拡大してみましたが、確かに枕木のような上に乗ってタイヤがありません。
昭和30年代後半は国内から消えゆく古いアメ車はこんな時代だったのですか。
昭和37年頃の東京ではこの種のアメ車は殆ど見掛けないようでしたが、
そのちょっと前の先人の写真を見ると東京も驚きの外車で時代を感じてしまいます。
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