古いものは消え新しい社会へとスタートした時代。構内搬送で活躍してきた蒸機もディーゼル機化へと急激に様変わりして行った。昭和38~39年頃の三井埠頭では1号、5号、7号機の中で5号機が主に動いていた。三井埠頭だけは稼働現場の撮影が許可され、自由に撮らせてもらえた風景はこんなであった。
三井埠頭 5号機 1964.12.25
この5号機は汽車製造1924年製で汽車製造の地方私鉄向けCタンクの基準となった相模鉄道向け4両の内の1両で、相模→国鉄→東野→三井埠頭という経歴を持っている。
動輪が少し大きい南薩5号機Cタンク、これに先従輪付とした神中3号機とともに地方私鉄タイプのタンク機として模型でもよく知られた蒸機である。一連の汽車製造の小型タンク機でキャブの窓の独特なR形状が耶馬渓鉄道10号機と同じである。
昭和39年12月は運よく1号機が動いていた。
ピーコック5500形を2B1形タンク機に改造したB10形(小湊鉄道に保存)のような英国系2B形テンダの改造機のようであるが正確なところはよく判らない。
小さな機関庫の前で 三井埠頭 1号機. 1964.12.25
参考文献引用 臼井茂信著: 機関車の系譜図3 交友社
7 件のコメント:
はじめまして、元・いきもの部長と申します。
以前から大変興味深く拝見させていただいておりましたが、今回初めて投稿させていただきます。
三井埠頭1号機について、手持ちの資料をあたってみました。
国鉄5517→B10 6 と思われます。
大改造されようとも、明治の貴婦人(と私は呼んでいます)の面影を感じます。
参考文献
RM LIBRARY 124号 渡辺一策著:鶴見線貨物回顧 ネコパブリッシング
Rail Magazine300号付録 沖田祐作編:機関車表 国鉄編Ⅰ ネコパブリッシング
元・いきもの部長さん
貴重な情報ありがとうございました。
国鉄B106は東洋埠頭へ行った情報があり、これは三井埠頭の1号機ではないと思っていました。
私の基準は「機関車の系譜図」のみであり、他の文献のことは知りませんでした。
小湊鉄道保存機と同様ピーコック5500形が原形ということになるのですか。始めて知りました、ありがとうございます。
三井埠頭1号機について、手持ちの資料をあたってみました。
国鉄5517→B106 と思われます。
(小湊鉄道は5507-B104陸軍兵器本廠までの軍用線に用いられた後戦後小湊鉄道へ)
B106は1943年に東洋埠頭に譲渡されています。(臼井茂信 蒸気機関車小史)
青蛙さん
B106は東洋埠頭へ譲渡は間違いなしのようですね。しかしこれは三井埠頭ではなくて別の会社です。今も同じ扇町にどちらの会社も存在しています。
最後的に三井埠頭へ行ったのは間違いないのでしょうけど。
日本鋼管鶴見の例のボールドウィンCタンク2台はもっとややこしいです。これに関する文献の情報ありましたら教えて下さい。
ただただ、こういうシーンを内部で撮られていることに敬服します。
近年、友人が小型&古典蒸汽にはまっており、模型史料を求めてこのサイトを見つけられたのだと、推測します。
私が撮れたのは最後の専用線、貝島炭坑くらいですが、晩秋の朝など誰もいない時にカメラを向けて、青二才は広田尚敬さんの専用線SLシーンを思い浮かべておりました。
当時の中学生は、乙訓の長老の遥か後に同じ大学サークルに属し、今はゆっくりお付き合いさせてもらっております。
kataroさん
サイト「デジタル元祖青信号」はよく拝見しております。
乙訓の長老さんとも何回かメールやりとりした事があります。
大学先輩には鉄道趣味界の大御所が大勢いらして楽しそうですね。
いつも趣味王国関西ならではを感じています。
コメントを投稿