案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2010年6月14日月曜日

栄枯盛衰 松尾鉱山


岩手山をバックに雄大な景色の中を行く客貨混合列車 

国鉄花輪線の大更駅から、硫黄採掘の松尾鉱山がある東八幡平駅まで、松尾鉱業鉄道が走っていた。乗換駅大更のホームには「国立公園八幡平登山口」の看板があり、鉱山町に住む従業員や家族の足だけでなく、八幡平を訪れる観光客の重要な足でもあった。しかし繁栄した松尾鉱山もこの3年後に廃坑となり雲上の楽園とうたわれた鉱山町も消滅し、鉄道は1972年に廃線となった。

(松尾鉱山のこと)
東洋一を誇る硫黄鉱山が栄え、昭和30年頃は標高1000mの地に鉱山町(雲上の都市)が栄え、その後急速に衰えて倒産、廃坑、廃墟となる悲惨な松尾鉱山の歴史。我々が訪問した昭和41年、この鉄道は活躍していたものの、悲しい廃墟へ向かっていた。



終着駅 東八幡平 。1966.3.2
松尾鉱山で栄えた“雲上の都市”はこの山の上に。 

4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

同行しましたので、撮影場所も限られていたためか撮影風景は、まったく同じです。ここは町田のTさんも一緒だったと思います。
写真から雪に覆われた八幡平の山並みと、スキーヤーたちを見ると栄枯盛衰の感。青蛙

katsu さんのコメント...

東洋一を誇る硫黄鉱山が栄え、昭和30年頃は標高1000mの地に鉱山町(雲上の都市)が栄え、その後急速に衰えて倒産、廃坑、廃墟となる悲惨な松尾鉱山の歴史。
我々が訪問した昭和41年、この鉄道は活躍していたものの、悲しい廃墟へ向かっていたのですね。

t7marimo さんのコメント...

訪問した当時は電気機関車が牽く客車列車だけだったと思います。ところが調べてみると、訪問した1年後に元阪和電気鉄道の強力な電車が活躍を始めています。しかし僅か5年の活躍で親会社の運命と共にして、その後、弘南鉄道に引き取られたようです。

katsu さんのコメント...

歴史に残る阪和の強力電車モヨ100形2両がその後入線したことは知りませんでした。使われたのは1967~69年の3年間だったようです。生き延びるための合理化だったのでしょう。大荒原と阪和の特急の組合せが興味深いですね。