青梅(東京)~飯能(埼玉)にかけて丘陵地帯があるが、八高線金子駅から見えるのが金子丘陵で、その西方の青梅まで連なるのが霞丘陵と呼ばれている。
1960年代半ば、地方だけでなく東京近郊にもこんな長閑な風景があった。
撮影:1966.9.29
八高線金子駅。一日何本もやって来た石灰石列車。
金子丘陵を背後に石灰石列車が金子駅に到着する。
東京近郊でこんな長閑な風景を見ることができた。霞丘陵
上記ネガの次のコマにあった日本のモータリーゼーションの幕開け 1966.10.30。
三菱
以下はホンダ
ホンダ
1966.10.30
2013年8月13日の記事 前年1965年の マイカー時代の幕開け
4 件のコメント:
現在の、電化された八高線(高麗川〜八王子間)とは隔世の感がありますね。
但し、非電化の高麗川〜倉賀野間はそれほど変わってないように見えない事もありません。
66年(昭和41年)だと、高麗川や大宮機関区には まだ汽車の煙が普通に見られたように記憶しています。
長年の活躍で疲弊し、煤で汚れた機関車は、生活感を感じさせると共に、どこか逞しく思えました。
最後のモーターショーの画像で、大きく写っているのは縦目のグロリアでしょうか?
そういえば66年は、あのカローラが発売された年でした。マイカー時代の幕開けは、生活に新たな豊かさをもたらしたと同時に、鉄道(特に地方交通線)の衰退のきっかけになったのは時代の流れだったのでしょうけど…。
esehokuさん
この時代はまだ蒸機が健在で高麗川などには96がゴゴロいました。
今の蒸機と違って現役時代の蒸機はいぶし銀のような美しさがありました。
66年のモーターショーは前年のショーから一段と進化しこの年に発売された
サニーとカローラで一気にマイカー時代がスタートした画期的な年だったと思います。
以前のブログ記事「マイカー時代の幕開け」をリンクしておきました。
モーターショーで写っているのはニッサン・プリンス・ロイヤルという車です。
このマイカー時代の幕開けにより地方の鉄道が衰退しまさに時代の転換期であったと思います。
最後の2枚の写真に写ているF1はホンダRS273ですね、ホンダは1964年から「走る実健室」と称しF1レースに参戦しておりましたが、なかなか勝てず排気量1,5ℓの最終戦である1965年メキシコGPで念願の初優勝をしました。
翌年の66年からは排気量が倍の3ℓとなつたため、各チームエンジンが開発できず英国のBRMやロータスなどはH形16気筒、フェラーリは得意のV形12気筒、その他のチームは古い2,5ℓのエンジンを持ち出しレースに参戦しておりました。
ホンダはエンジンの開発が進まずシーズン途中から写真のRS273で参戦しました、エンジンは写真にありますようにV12気筒を採用し、馬力では1番でしたが、丈夫な車体が災いし車体重量が重くレースではなかなか勝てませんでしたが、翌年ドライバーのJ,サーテイーズのアドバイスを受け車体を大幅に改良、イタリアGPで2度目の優勝をしました。
SGOさん
当時の経緯について詳しく記載いただきありがとうございます。
この頃はS600などホンダのクルマに憧れていました。
私は憧れだけでクルマの世界には入りませんでしたが
学生時代にはエンジン屋が憧れの世界でした。
写真を追加しておきました。
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