案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2020年2月17日月曜日

「花の精」と是政線

北海道のUsuiさんから知らせて戴いた上林暁の「花の精」の一節は、以下のような是政線と月見草のことであった。小説の情景描写から非電化時代の是政線のある日が活き活きと浮かび上がってくる。

 その日の午後、私達は省線武蔵境駅からガソリン・カアに乗った。是政行は二時間おきしか出ないので、仕方なく北多磨行に乗った。そこから多摩川まで歩くのである。私は古洋服に、去年の麦藁帽子をかぶり、ステッキをついていた。O君は色眼鏡をかけ、水に入る用意にズックの靴をはき、レイン・コオトを纏って、普段のO君とまるで違い、天っ晴れ釣師の風態であった。ガソリン・カアは動揺激しく、草に埋もれたレイルを手繰り寄せるように走って行った。風が起こって、両側の土手の青草が、サアサアと音をたてながら靡くのが聞こえた。私達は運転手の横、最前部の腰掛に坐っていた。
 「富士山が近くに見えるよ。」とO君が指さすのを見ると、成る程雪がよく見える。
多磨墓地前で停車。あたりは、石塔を刻む槌の音ばかりである。次が北多磨。そこで降りて、私達は線路伝いに、多摩川へ向かって行った。麦が熟れ、苗代の苗が延びていた。線路は時々溝や小川の上を跨っていて、私達は枕木伝いに渡らねばならなかった。

  <多摩川の土手から河原に下りると月見草が・・このところ略>

「七時五十五分、最終のガソリン・カアで、私達は是政の寒駅を立った。乗客は、若い娘が一人、やはり釣がえりの若者が二人、それにO君と私とだった。自転車も何も一緒に積み込まれた。月見草の束は網棚の上に載せ、私達はまた、運転手の横の腰掛に掛けた。線路の中で咲いた月見草を摘んでいた女車掌が車内に乗りこむと、さっき新聞を読んでいた駅員が駅長の赤い帽子を冠り、ホームに出て来て、手を挙げ、ベルを鳴らした。
  ガソリン・カアはまた激しく揺れた。私は最前頭部にあって、吹き入る夜風を浴びながら、ヘッドライトの照らし出す線路の前方を見詰めていた。是政の駅からして、月見草の駅かと思うほど、構内まで月見草が入り込んでいたが、驚いたことには、今ガソリン・カアが走って行く前方は、すべて一面、月見草の原なのである。右からも左からも、前方からも、三方から月見草の花が顔を出したかと思うと、日に入る虫のように、ヘッドライトの光に吸われて、後へ消えて行くのである。それがあとからあとからひっきりなしにつづくのだ。私は息を呑んだ。それはまるで花の天国のようであった。毎夜毎夜、この花のなかを運転しながら、運転手は何を考えるのだろうか?  うっかり気を取られていると、花のなかへ脱線し兼ねないだろう

 花の幻が消えてしまうと、ガソリン・カアは闇の野原を走って、武蔵境の駅に着いた。是政から帰ると、明るく、花やかで、眩しいほどだった。網棚の上から月見草の束を取り下ろそうとすると、是政を出るときには、まだ蕾を閉じていた花々が、早やぽっかりと開いていた。取り下ろす拍子に、ぷんとかぐわしい香りがした。私は開いた花を大事にして、月見草の束を小脇に抱え、陸橋を渡った。


上林暁 1902~1980年
「花の精」1940年発表(作者38才)から1940年以前の是政線ということになる。
是政線に在籍していたカゾリンカーは1928年製キハ10形(木造)と1938年製キハ20形(鋼板)がある。どちらも2軸ガソリンカーだが木造のキハ10形には素晴らしい風情がある。

キハ10形 武蔵境駅1937年
「写真で見る西武鉄道100年」 ネコパブリッシング

北多磨から是政へ向かう。1962.8.27 (ベタ焼プリントからの画像)
多摩川べりの是政というところへ行けば、すぐ川の向こうへ山が迫っているという。「花の精」より。写真の1962(昭和37)年の是政線は小説のずっと後だが、一面の畑と多摩川の向うの山並みが見える。戦前戦後の風景をまだ残していたのだろう。

 北多磨駅 1962.8.27
小説ではここで下車し是政まで歩いている。

是政駅

 是政駅 1962.8.27





北多磨(現白糸台)から是政まで.

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