案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2018年11月6日火曜日

遠鉄奥山線 曳馬野駅風景 

電車と気動車がバトンタッチする曳馬野は次々とやってくる電車や気動車で楽しい駅であった。非電化区間では外観が異なる3タイプの気動車が活躍していた。

撮影:1963.4.4、1964.3.23
電車区間を曳馬野へ向かう途中で、上池川で列車交換。乗って楽しい丸妻客車の最後部にはいつも客が立っていた。

曳馬野の駅舎と大きなパンタ。

非電化区間の気動車には1802、1803、1804がいた。ライトがばかにでかい1803。

曳馬野駅風景

気賀口から非電化区間を走って来た遠鉄浜松行の気動車。金指まで並走するバス道路はバス代替え時点でもこんな非舗装路であった。

遠鉄浜松行き列車の乗客は気動車から電車に乗り換える。

曳馬野を発車した電車は殺風景な三方原台地を遠鉄浜松へ向かう。

帰りに立ち寄った駿遠線 袋井駅風景 1964.3.25

10 件のコメント:

モハメイドペーパー さんのコメント...

 私が奥山線を訪れたのは1964年3月24日、1日違いで雨でした。
曳馬野~気賀口間で乗ったのはキハ1804、エンジン出力が大きく、
金指で併走する国鉄のキハ20をぶっちぎったという話はKatsuさん
から聞いたような気がします。

U-BOAT さんのコメント...

こんにちは。

浜松市在住だからなお一層興味深く写真を見ています。
先にも書きましたが、戦後の奥山線の途中までの電化で利用客はいったん増加に転じていたようです。
ただ途中駅までと言うのも思い切ってお金を使えない苦しい状況が見て取れます。
1067ミリへの改軌も路線用地の新たな買収、橋脚の架け替え、トンネルの拡幅が必要になるなど。

遠州鉄道の社史を読むと西鹿島線は戦時中どんなに空襲を受けても一日も運休にはしなかったとありますが、奥山線については記録が少ないですね。当時からお荷物扱いだったのでしょうか。陸軍航空隊の浜松基地があったと思うのですが。
現在住吉周辺は大変な混雑で、曳馬野周辺も同様です。

実は浜松市は全国政令指定都市の中でも極端に公共の交通機関(バス)の利用が少ない都市のようで、奥山線があるとどうなっていたか、興味深いと思っています。

katsu さんのコメント...

モハメイドペーパーさん
驚きました。同じアルバイト先のフクシマ模型から1日違いで奥山線に来られた人がいたとは !
さっそく訪問記を紐解いてみました。
我々が奥山線を訪問したのは1964年3月23と24日で、24日は曳馬野で採寸した後、午後から遠鉄の方に二俣線車庫を案内してもらっていました。
その翌日に元城の遠鉄宿舎を出発した時は朝はから雨で、次の訪問先である駿遠線がだいなしでした。
モハメイドペーパさんが訪問した雨の日は、もしかしたら25日の一日違いだったのでは?

モハメイドペーパー さんのコメント...

 ネガカバーには24日とあるのですが、天気具合からすると25日が正解のようですね。

伊豆之国 さんのコメント...

遠鉄奥山線の廃線跡の沿線は、14年ほど前、「元城」駅があった浜松城の裏手から、亀山トンネルを抜けて静岡大キャンパスの近くまで、遊歩道を通ったことは前にも書いたかもしれませんが、その6年前、舘山寺温泉から当時運行されていた「奥浜名湖めぐり」の観光バスで、奥山→井伊谷→気賀と回って浜松駅に戻っていて、奥山線の沿線をなぞるようなコースだったのですが、天竜浜名湖線の線路を過ぎて浜松市街地に向かって行き、バスガイドが「小豆餅」「銭取」の由来を話していた辺りに来ると、びっしり住宅が立ち並ぶありふれたような郊外住宅地の風景になっていて、今思えば「奥山線が残っていたら…」と惜しまれるように思えます。電化区間の終点であった「曳馬野」辺りも、いくつか他のブログなどを見ていると、やはり完全に宅地化されており、電化区間だけをゲージを広げて残していたとしても、中途半端な位置になっていたように思え、もう少し北側まで電化・1067mmへの拡幅が行われていたら、西鹿島線と同様に、周辺市町村との合併で80万都市に膨れ上がった浜松市の通勤通学路線として大いににぎわっていたであろうと思うと、なんか複雑な気がしますが、大井川の橋を架け替えも補修もできず駿遠線を維持できなかった静鉄と同様、地方の中小私鉄にはこれが精一杯だったのでしょうか。

katsu さんのコメント...

モハメイドペーパーさん
先日の私の写真展で初日にモハメイドペーパーさんが来場したことがメモにあるのですが、
ハンドルネームと来場者名簿を照合するのをうっかりしてしまいました。
お名前が分かれば54年前にフクシマ模型でご一緒したことが思い出せるかも知れないと
懸命に調べているのですが今も判明していません(泣)。
こんどCedarさんとお会いしたら聞いてみようと思っています。

katsu さんのコメント...

U-BOATさん
浜松市にお住まいでしたか。
1964年頃に戴いた遠州鉄道の社史を私も持っていたのですが、行方不明になってしまい残念なことしました。
戦時中の奥山線は沿線に軍関係の施設が多く賑わっていたようです。
現在は曳馬野の先三方原までこれだけ住宅が密集していて、交通機関のバスが使われずとなると、
朝夕のクルマでの移動が大変ですね。
やはり奥山線がもし進化・存続していたらという思いにかられます。

katsu さんのコメント...

伊豆之国さん
確かに奥山線が走った沿線の今を空から見ると凄い密集地帯ですね。
生まれ変わった奥山線が存続していたらと思います。
改軌が無理なら近鉄(元三重交通)のようにナローの近代化を進めて存続させていたら、
なんて思うこともありますが、実情を知らない外部の夢物語かもしれません。

esehoku さんのコメント...

本ブログへのコメントの主旨からは微妙に外れるような気はしますが、「曳馬野」って地名がいいですね。
詳しい由来などは全く知りませんが、なんか馬の時代からの由緒みたいなものを覚えます。
最近はこういう、由緒ある地名を大切にしない駅名などが増えていて、イメージやムードばかりを煽るようなネーミングに辟易しています。路線名なんかにも、同様の事が言えると思います。
やたら平仮名にしてみたり、「浦和」の近くを強調するせいか、東西南北どころかさらなる「◯浦和」が乱立したり、寿限無じゃあるまいし、やたら長い名前をつけてみたり…
いずれも、趣きが感じられない名前が殆どだと思います。

katsu さんのコメント...

esehokuさん
確かに由緒ある地名を大切にした駅名がありますね。
特に地方には沢山あり、地方私鉄の魅力の一つに情感溢れる土地名や駅名があります。
esehokuさんの好きな北陸地方では動橋、羽咋、鶴来、鯖江、武生、越前、加賀などなど。
最近の路線はそれが崩れてきたように思われます.
私はこんな駅名や土地名を地方私鉄路線のタイトルにちりばめたくなります。
ちなみに写真集では、尾小屋鉄道を「最後の非電化軽便」なんて無骨なタイトルではなく「加賀平野の風」としました。