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高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2018年11月13日火曜日

遠鉄奥山線 気賀口 2

気賀口駅周辺の5万分の1地図(S35年)がありました。

1963(S38)年4月まで気賀口の先、奥山まで延びていた線路は、気賀口を出ると井伊谷川を渡らず橋の手前で急カーブして道路を横切って井伊谷川の土手を走っていた。気賀の町外れで川向うにあった気賀口駅の位置関係と、川の手前の急カーブが地図でよく分かる。
井伊谷川を渡る道路形状が現在と異なるのは、橋が少しだけ上流側につけ替えられたのだろう。


撮影:1964年3月、10月
奥山~気賀口廃線後の気賀口の終端部。道路を横切って土手に向かう廃線跡(築堤)が残っていた。
当時の道路は橋の手前で今と違って左にカーブしている。

廃線跡めぐり 2000年5月


きがぐち駅前

気賀口最後の日 1964.10.31

以下は気賀口の遠鉄浜松方面の風景。
  気賀口から遠鉄浜松方面に向かう直線区間。

直線区間の先で国鉄二俣線に接近する。

二俣線に接近したところに小さな岡地駅があった。3'6''と2'6''ゲージの並走区間。

岡地駅を出て右にカーブすると暫く国鉄二俣線と並走してから二俣線をオーバークロスする。

4 件のコメント:

U-BOAT さんのコメント...

こんにちは。

昭和63年頃浜松に来る用事がありまして、四村駅の駅舎を見るためだけにこのあたりまでバスで来たことがあります。
ホームは小さかったですが、駅舎は割とまともそうな印象でした。人の家になっているためまじまじと見ることはしませんでしたが、一説によると中に結構旧車バイクを押し込んでいたようで、現在そちら方面をメインの趣味にしている私はもっとちゃんと見ておけば良かったと後悔してます。
駅舎も老朽化のため取り壊されましたが、中の旧車バイクはどこに行ったのでしょうね。

二俣線を越えるためのコンクリート製の跨線橋?はまだまだ健在です。

katsu さんのコメント...

U-BOATさん
こんにちは。
私も2000年5月に廃線跡めぐりで四村駅を訪ねました。
ホームと駅舎がしっかり残っていましたが、その後消えてしまったのですね。
築堤や鉄橋など廃線跡がしっかり残っていましたが、
あの廃線跡めぐりから早いもので18年も過ぎていました。
過去に現役時代の車窓風景をアップしたのですが、5万分の一地図と組み合わせて
もう一度ブログでやってみたいと思っています。

みーくん さんのコメント...

こんにちは。
奥山線の"昭和39年11月1日のこと"で一回コメント投稿した みーくんです。
11月は元城、気賀口と奥山線関係を載せていただき懐かしく閲覧できました。
気賀口2の地図は今昔マップでしょうか?
私も過去の地図を見るのが好きで地元(浜松)と奥山線はよく現在と比べてしまいます。

知っているかと思われますが、三ケ日、気賀、引佐高校が統廃合され気賀高が廃校となってしまった関係で、
天浜線の気賀高前駅から岡地駅に名称変更されてます。
岡地駅復活といっていいのかどうかですが。。。
また遠鉄バスも来年10月にも北遠本線など北部から撤退すると伝えています。
軽便ではないですが、現在も公共交通が着々と縮小されている浜松です。

katsu さんのコメント...

みーくんさん
気賀口2の地図は昭和35年で、写真を撮った時代の地図です。
岡地駅の駅名が復活でしたか、昔からの駅名が分かり易くてよいと思います。
バスが北部から撤退するとクルマしか交通がない地域は益々過疎化が心配されますね。
まあ無理な話と思いますが、浜松から奥山までドーンと一本鉄道が走っていたらと思います。