案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2016年10月25日火曜日

小田急 朝の通勤ラッシュ

昭和30年頃の世田谷といえば、過去に数日間だけこんな写真をアップしたことがあります。

写真は、1960年代の高度成長期が始まる前、デハ2200形登場後からすると1950年代の後半でしょう。私は喜多見で各停に乗って成城で急行に乗換え下北沢までの通学はこの後の時代であったが、小さな中学生の身体は大人達に挟まれて浮いたままであった。座席の前に立ち背後からくる圧力を手で支えきれない客は座席客のヒザの上に崩れ落ちる。時には窓ガラスが割れることもあった。下北沢までのノンストップ・ノロノロ運転で満員電車の乗客は長い時間を耐えていた。下北沢で乗換える客が殺到する井の頭線渋谷行きはもっとひどかった。

夏は着膨れがなくなり冬よりマシだが車内にクーラは無し、夏のサラリーマンは皆ワイシャツ姿が当たり前で夏にスーツ着用できる時代ではなかった。こんな小田急の頃があった。

 急行に新鋭デハ2200形が登場。左の各停は1400か1200形でしょう。急行には乗れない小学生が眺めている。 朝の成城学園前

各ドアごとに押し込み駅員が配置して、押し込みアルバイトもいたのか全身使って押し込む.車掌氏はハラハラし最後の閉まらないドアを数人で押し込んで電車はやっと発車する. 画像所蔵 狛江市 吉原様

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