案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2014年9月11日木曜日

北陸鉄道 いぶりばし

昭和39年に北陸鉄道を訪問した時は、北陸本線の動橋(いぶりばし)から山代線と片山津線の2つの温泉行き電車が出ていた。(加賀温泉郷行きの電車山代線片山津線は本ブログで紹介済み)

更に北陸本線で一駅先の粟津からは粟津線が出ていて、粟津温泉を通って山代線宇和野まで昭和37(1962)年まで走っていた。
粟津線は見た事もないがこんな(写真下)北陸の空の下、白山を望む畑の中を走っていたと想像される。
温泉郷が衰退するずっと前の動橋(いぶりばし) や粟津から、こんな小さな温泉行き電車が走っていたのは今やもう人々から忘れ去られてしまっている事でしょう。

山代線 新動橋 - 庄 1964.12.29
今にも雨や雪が降りだしそうな黒く立ち込めた雲.背後に白山の山並みが光る.


山代線 庄駅近く. 粟津線が分岐する宇和野駅はこの2つ先となる.


国鉄動橋(いぶりばし)駅から少し離れている山代線新動橋の風景。 

国鉄動橋(いぶりばし)駅の反対側から出ていた片山津線の電車

北陸本線動橋駅のホームに隣接して、片山津線のホームと車庫があった。
加南線では片山津線だけがビューゲルであった。 

北陸本線動橋駅 一つ先が粟津駅

18 件のコメント:

chitetsu さんのコメント...

動橋、粟津•••
懐かしい電車風景が展開していたのでしょうね。
私は廃止後の遺構を
見に行くのが精一杯でしたが、地鉄電車の原点のような新道橋のお写真に痺れました。

常夜燈 さんのコメント...

動橋~山代間は乗客が少なかった様で
直接制御車の単行が多かったようです。
粟津線は私も見てないのですが
宇和野のホームの狭さに驚きました。
直前に乗り換えた河南駅とは
あまりに異なるからです。

katsu さんのコメント...

chitetsuさん
北陸鉄道は北陸の気候と黄赤カラーの電車がよくマッチしていましたね。
北陸鉄道の中でも動橋から出ていた路線は小規模で魅力的でした。
温泉行きの電車はいかにも地方私鉄を感じてしまいます。

katsu さんのコメント...

常夜燈さん
私は宇和野から粟津線が出ていたのは後になって知りました。
宇和野を通過したのは粟津線廃線の2年後だったのできっとホームは残っていたのでしょう。
宇和野はそんな狭いホームでしたか。
粟津線のことは今でも気になります。
粟津線が走った白山を望む風景は今も変わらないでしょうね。

伊豆之国 さんのコメント...

私が始めて北陸を訪れたのは、既に特急停車駅が加賀温泉駅に集約され、加賀温泉郷から北鉄電車が全て消えた後の昭和47年の金沢・能登への旅でした。山代・片山津温泉の玄関であった動橋駅と、山中温泉の玄関・大聖寺駅がお互いに特急の停車を巡って激しく争い、手を焼いた当時の国鉄が「喧嘩両成敗だ!」とばかり、両者の中間にあった、「元信号所上がり」だった作見駅を「大改造」という名目で、特急停車を集約した「加賀温泉」駅という名の実質新駅を作るという「荒業」を使った結果、乗換駅が特急が素通りとなり「梯子」を外された山中・山代への電車は、既にそれ以前に自動車に押されて廃線になっていた片山津・粟津両線を含め、加賀温泉郷への北鉄のネットワークは消滅となったのでした。
昭和も50年代になると、特急停車駅も「大安売り」になったので、もし「加賀温泉」駅への集約が行われなかったら、例えば大聖寺を「大聖寺・山中口」、難読の動橋は「片山津・山代口」とでも改称して共に停車駅としたかもしれませんが、仮にそうなったとしても、路線が短くレールも貧弱そうな北鉄電車はせいぜい数年延命しただけ、という結果になったような気もします。
平成になってから、山中温泉に泊まったことがあり、その翌朝、そこからタクシーで安宅関~小松まで回っています。粟津線があった沿線に「那谷寺(なたでら)」という名刹があり、境内に「岩山巡り」のようなものがあって結構面白かったことを覚えています。加賀温泉駅は、このときに降りましたが、列車から降りた観光客が一目散に旅館の送迎バスに乗るだけ、といった感じで、駅前には何もなく殺風景な印象でした。

なと。 さんのコメント...

路線図を見るだけでワクワクします。
国鉄に乗っていても、駅ごとに楽しみが待っていたんだろうなぁ、と思いました。

にわか呉市民 さんのコメント...

祖母は幼少時宇和野駅近くに住んでおり、隣駅近くの庄小学校まで(徒歩で)通っていたと語っていました。
学校を卒業してからしばらく山中温泉で働いていたそうです。

こちらで公開されている写真を見せたところ、
「山代駅はねずみ色の壁に煉瓦色の屋根だった」
「(旧塗装は)サツマイモのような色の電車で、塗装は気泡が出ており仕上げが粗かった」
と話してくれました。

自分は幼少期に大井川鉄道に流れ着いた「しらさぎ」くらいしか見たことはありませんが、肉親からの証言を聞いてから写真を見ると、他とは違うノスタルジーを感じます。

katsu さんのコメント...

伊豆之国さん
特急停車駅の加賀温泉駅の話しは面白いですね。
加賀温泉駅は山代、山中、片山津といった加賀温泉郷に向かうのに最も効率よい位置としたのでしょう。
大聖寺や動橋から温泉電軌に乗って温泉へ向かう風情はクルマ社会で消滅し、
さらにバス輸送も効率第一で温泉めぐりの風情は何も無い象徴ですね。

katsu さんのコメント...

なとさん
北陸本線の駅には無数の小私鉄が接続していて列車に乗ると駅の端を必死に確認したものです。
その殆どが消えて、あの頃の北陸本線の旅の楽しみは無くなりましたね。
覚えきれないくらいあった私鉄路線は、路線図を書いてやっと頭に入ったものです。
もう絶対に戻ることのない北陸の私鉄路線です。

katsu さんのコメント...

にわか呉市民さん
貴重なお話をありがとうございました。
見た事もない粟津線が分岐する宇和野駅に私は大変興味深いものを感じてしまいます。
あと2年早く行っていれば粟津線の風景が撮れたのに残念です。
昔の山代線の電車はサツマイモのような色をしていたのですか。
その時代の色に塗った電車と宇和野駅を模型にして再現したら素晴らしいでしょうね。

toshi さんのコメント...

鉄道に全く無関心だった昭和60年頃、山代温泉へ
車で旅行し中心地の山代中橋交差点に差し掛かった時
信号で止まって周りを見渡した印象が何か駅前みたいな
風景だなと思った物でした。

後からその辺りが山代線の山代駅が有った場所と知った
時、やはりあのときの印象は間違いじゃなかったんだな
と思った物です。

#9999 さんのコメント...

古い鉄道地図を見ると、石川・福井・富山の私鉄路線は賑やかですね。
これだけ地方私鉄が密集して残存していた地域は珍しいと思います。
北陸はまさに地方私鉄の宝庫だったにも関わらず、軽便路線以外の60年代の記録は少なく、特に貨車に関してはネットでも殆ど見かけません。
学生時代、北陸はあまりにも遠く手が届きませんでした。

Cedar さんのコメント...

加南線には間に合いませんでした。父親が同業者の親睦旅行の時に河南や大聖寺で駅撮りした写真しかありません。
くたに号やしらさぎ号を投入した頃には、すでに凋落は始まっていたのでしょうか?

katsu さんのコメント...

toshiさん
昭和60年頃と言えば山代温泉も繁栄の時代は終わり衰退していたと想像します。
昭和39年に見た山代駅前にはまだ団体客が見られました。
その後、加南線各線は全て消滅してしまい、
加賀温泉郷も大きく変わった昭和60年頃だったことでしょう。
私鉄駅を降りて進むとそこに温泉街がある。
こんな温泉行き情緒はバスやマスカーになって一変してしまったのでしょう。

katsu さんのコメント...

#9999さん
北陸路はその通りで地方私鉄の宝庫でした。
初回訪問の昭和37年は未発表の私鉄路線もあり行って見るまで何が走っているのか判らない路線がいろいろありました。
あまりに路線が複雑で、その後訪問する前に次々と消えてしまったのが残念です。
その数年の変わり身は大きかったと思います。
車両など戦後を引き摺っていた風景が、この数年間で消滅してしまった感じがします。

katsu さんのコメント...

Cedarさん
貴ブログで拝見した羨ましい父上の北陸温泉旅行の話しをよく覚えています。
その頃の関西の奥座敷はさぞ華やかだったことでしょう。
加南線の主力山中線に、くたに号やしらさぎ号を投入した頃は既にバス路線の発達で、凋落は始まっていたと思います。
生き延びた山中線、山代線も1960年代後半のマイカー時代爆発であっという間に消えてしまった。
あの特急電車の投入後が余りにも激変した社会であったと思います。

esehoku さんのコメント...

こちらも懐かしいですね~!
宇和野駅は、「連絡線」時代にはシザーズクロッシングを持った構内配線が特徴的で、河南行、山代行、動橋行、粟津温泉行、新粟津行の単行電車が忙しく行き交っていました。
国道8号線の延伸によって粟津駅付近の渋滞が予測され、北陸鉄道は粟津駅の手前を高架で乗り越えるか、新粟津ー粟津温泉間を廃止するかを迫られるのですが、後者の場合、残った宇和野ー粟津温泉間はバスとの二重投資になるという理由で、結局は宇和野ー新粟津間を廃止して、河南ー新動橋間を山代線と改称しています。
この時に、建設省からの補償金で造られたのが、かの「しらさぎ号」だったんです。
そのしらさぎ号やくたに号が走っていたのは、もっぱら大聖寺ー山中間の山中線で、相変わらず旧型車が単行で走る山代線はどこか見劣りがしていました。この状況は昭和46年の廃線時までとうとう変わらず、最終日には珍しくくたに号が山代線を走ったのですが、山中線側が大にぎわいだったのと対称的に、山代線側は今一つ寂しかったようです。
山代線は、クリーム色と朱色の1800型が、山代の街中の県道に沿って適当に敷いたような軌道を、ゴロゴロと走っているのが何とも田舎くさく感じました。






山代線

katsu さんのコメント...

esehokuさん
宇和野駅のことは前にコメントしたことがありますが夢のような素晴らしい光景を想像してしまいます。
あの閑散とした一面田畑の中を走る山代線の途中から新粟津まで線路が繋がっていたことが信じられません。
クロッシングがあり単行電車が行き交うこんな宇和野駅をジオラマに作り込んだらどんなに素晴らしいでしょうか。