案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2012年1月30日月曜日

畑の中の海老名駅

1963(昭38)年の相鉄/小田急の海老名駅は畑の中にあった。
下の写真を見てまさか海老名駅に思えなかったが、前後の写真や当日の記録を付け合わすと海老名駅に間違いないようだ。今ではこの畑の中に小田急車両基地やビルや住宅がひしめき合っている。

昭和38年この日は相鉄1000形の撮影会で横浜から相鉄で海老名へ向かい、相鉄貨物線を撮ってから海老名に戻って相模大塚の車両基地へ向かったのだった。

畑の中の海老名駅 1963.10.20   画像クリックで拡大 
左から相模鉄道の単線が小田急線に並走し海老名で小田急に接続する。
駅の周辺には一面田畑が拡がり駅前には何もない、駅前らしいのは不動産屋くらいか。

小田急線の上を相鉄貨物線(左)が越え、右に相鉄線が並走する.

小田急線に並走して相鉄電車が海老名駅に到着する.


相鉄貨物線の反対側には丹沢山系をバックに広大な平地が拡がり、
国鉄相模線がポツンと走っていた.


2012年1月29日日曜日

相模鉄道にいた元小田急1100形

相模鉄道の車両基地を訪問したのは1964(昭39)年2月1963(昭38)年10月だった。
小田急1100が相模鉄道へ行ったことを知って、昔撮ったネガをスキャンしてみると確かに元小田急1100が写っていた。ただし昭和22年の移籍だそうで私が知らない時代の小田急にいた1100であった。

私が小田急で見た1100とは細部が異なる車両もいたようで、外観も黄色一色に塗られていた。
昭和22年に譲渡されたのは小田急デハ1155~1159、1162~1165の9両で、これが相鉄モハ1001~1009となった。相鉄で役目を終えた後さらに日立電鉄、京福電鉄へ譲渡されている。

モハ1004.この翌々年に1004~1006の3両が京福へ譲渡されている. 1963.10.20  画像クリックで拡大
モハ1004+1005+?

片運転台で貫通扉付の1004

中間車化された1005


昭和33年頃の小田急で良く見掛けた両運の1009

昭和38年
相模鉄道の顔ぶれ. 20mクラス4ドア車の新旧対比が面白い 
モダンな初代5000系だが登場は1955年と意外に古い 
1961年に登場した旧6000系は両開き4ドア全長20mクラスと相鉄では革新的で
元国鉄63系から飛躍的な進化をしている
戦後の国鉄63が健在だった 
こんな元国電までいた 
電車の下周りを履いたED12 
厚木~相模国分間の貨物線を行く 

2012年1月27日金曜日

熊本電鉄 小田急1100の思い出

中学生の頃、よく小田急のデハ1100形に乗ったが当時はカメラも持ってなく活躍していた頃の写真は撮る事ができなかった。それから10年くらい経って熊本電鉄で元小田急1100形に再会した時は、運転台にあった大きな手動ハンドル、H型の仕切りバー、小さな木造運転室と客室ドアまでの壁など、遠い昔の事が蘇ってきた。

小田急で1100形が動いていた頃の朝のラッシュ時間帯は、この小さな電車に通勤通学客がギュウギュウ詰めで大人に埋もれた小中学生は大変な思いであった。1100形の連結面は運転台が自由に出入りでき(付随車化された中間車だったか?)、よくそこへ避難したが大人の乗客も運転室まで溢れ、下北沢でどっと降りる時は運転室のドアを開けて降りていた。また夏の学校帰りは連結面の運転台で窓全開でモータの唸り音を聞きながら涼むなど楽しいひと時であった。
写真は熊本電鉄 1967.3.6

懐かしい1100の運転台.  熊本電鉄モハ303   画像クリックで拡大

反対側の運転台

 菊池駅を発車したモハ303


朝の広瀬駅 モハ303


モハ301は小田急が買戻し開業時の1形に復元. 北熊本

1959(昭34)年 小田急デハ1105~1108の4両(両運転台)が熊本電鉄へ譲渡されモハ301~304となった。

2012年1月24日火曜日

都電杉並線 昭和37年の青梅街道

路面電車で楽しいのは電車の周りに写し込まれた人々や自動車そして街の風景など。都電杉並線の郊外もそんな生活感に満ち溢れた魅力があったようですが、それを知らずに私が撮ったのは新宿近辺でした。

淀橋警察署(新宿警察署となり反対側に移転)前を行く杉並車庫行と、レトロな自動車. 1962年秋
1950年代の自動車創成期を経て1960年代は日本の自動車が急速に普及した時代で、昭和37年頃はこんな自動車がメインに走っていた。昭38年の二代目ブルーバード出現あたりから車の名称の記憶があるが、それ以前のレトロな車のことは今も判らずだが、昭和40年代初頭までいたる所で走っていたのでしょう。


初代ブルーバードや昭和の象徴ミゼットが走る青梅街道.


初代ブルーバードも翌年には二代目が姿を見せている.  1963年秋


西新宿再開発前の風景.現在の新都心歩道橋下交差点.1962年秋  画像クリックで拡大
蔦からむレンガ建物は移転前の精華学園女子高では? そして右手に淀橋浄水場が拡がる.
左手一角が今の新宿エルタワー(1989年竣工)となって一変している。

今日の風景

何の変哲もない大ガード西の「新宿駅前」

今日の風景

2012年1月21日土曜日

都電杉並線 最後の日

1964(昭39)年の東京オリンピック開催に向けて東京が大きく変貌していた頃、
都電杉並線はオリンピック前年の1963(昭38)年11月に最後の日を迎えた。
東京郊外西へ向かう1067mm軌間の路面電車も、昭和37年地下鉄丸の内線の全通で役目を終えた。
杉並線が走る青梅街道の風景もオリンピックに向けての工事が既に終えたのか、すっきりしてきたように見える。

新宿大ガードの前にあった杉並線「新宿駅前」もこの日が最後 1963.11.30 画像クリックで拡大

最後を惜しむ家族連れ

車社会の到来で路面電車が邪魔者に. 杉並車庫前


青梅街道の天沼陸橋を行く.こんな殺風景さが昭和30年代らしい.

沿線には最後を惜しむ人々が

夕闇せまる天沼陸橋

2012年1月17日火曜日

江若鉄道の車両

廃線直前の江若鉄道では、朝夕に最新型3両編成の2本を見たものの、日中は元国鉄07形や元熊延鉄道の気動車がトレーラ1両を牽くのが殆どであった。生え抜きの古いキニ4やキニ11まで活躍していたのが意外であった。
昭和40・41年に在来車、新造車を改造した3両編成2本を登場させ、同社初の液体式気動車で自動扉も初めて採用。ただし見掛けによらずこの新登場2編成は1両を除きかなり古い車両を集めた改造車であった。

キハ5121+ハ5010+キハ5122 比良号     1969.10.19
両端が元国鉄07形の改造で3扉車流線形の面影を残す.
中間車は客車改造した両端切妻形.


キハ5123+キハ5120+キハ5124
キハ5123はキニ6の改造、キハ5124が元国鉄07形の改造と元はかなり古い.
そして中間車キハ5120は新造キハ30の改番.

中間車キハ5120(キハ30の改番). 江若で最後の新造車.
1963年製造で登場後6年で廃線となり関東鉄道筑波線へ売却された.

筑波鉄道キハ511 1987.3.14

↑ キハ52(元熊延鉄道)+ハフ2
キハ15  元国鉄キハ41023

キハ22 元国鉄キハ071
前面が琵琶湖型のキニ11まで活躍していた.

ハフ2
ハフ3

気動車王国江若鉄道の車両についてはあまり関心がなく、寺田裕一氏のローカル私鉄廃線跡探訪
「消えた轍」4 で初めて詳細を知った次第です。上記の車両解説は「消えた轍」4からのものです。


江若鉄道と云えばネルソン、ダブスのテンダー機が2B1タンク機へ改造された
美しい鉄道省1070形の写真(蒸気機関車スタイルブック)が目に浮かぶ.
江若鉄道には1070形1107と1118が在籍し、1118(ダブス製)は羽鶴の1080と兄弟となる.


羽鶴の1080     1973.4.8
江若鉄道では昭和30年頃までこんな蒸機が古典客車を牽いて琵琶湖畔を走っていた.

2012年1月6日金曜日

京福叡山線 修学院車庫


八瀬遊園行きデオ500形506  修学院  1969.1.2
パンタをポールに付け替えた元阪神小型車  
画像クリックで拡大


元阪神831形が6両休む修学院車庫


デオ500形510(元阪神831形)

生え抜きのデナと元阪神が混在する車庫の風景 


 京都電燈が叡山線用に増備したデナ21形22  1929(昭4)年日車製 


鞍馬電気鉄道開業時に新造されたデナ21形124 1928(昭3)年日車製

1944年に京福福井支社へ転じたデナ11形.  東古市 1968.1.14
叡山線開業時に新造されたデナ11形(11~14) 1926(大15)年日車製は
福井支社ホデハ241形(241~244)として生まれ変わった.