案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2011年8月24日水曜日

川崎・鶴見界隈の専用線蒸機4

鶴見線の駅で見た日本鋼管鶴見の蒸機は、前回のボールドウィン古典機10号と有名な珍品古典機クラウス12号、そして協三工業製18号であった。撮影場所が不明確であったが訪問記を見つけ鶴見線浅野と弁天橋で撮ったことが判った。

訪問記より。
扇町の三井埠頭を引きあげて鶴見線浅野に向かった。この辺はクモの巣ごとくレールが敷かれさっぱり分からない。駅のそばに置いてあった産業用SL(日本鋼管18号機)を撮り、弁天橋へ向かった。鶴見線と工場専用線が並行して走るので駅は絶好の撮影場所であった。弁天橋で電車を降りたとたん遠くにカン高いホイッスルの音が聞こえ怪しげなSLがこっちにやって来た! 目を開けてよく見るとあの1Bのクラウスであるのには驚いた。そしておまけにもう1両やってきたのはあのボールドウィンであった。
どんよりとした天気が不満であったがこの幸運に大満足して引きあげた。

弁天橋に現れたクラウス12号機。この珍品中の珍品は、クラウス1907(明治40)年製で青梅鉄道が改軌に備えた1B形タンク4両の1両が日本鋼管鶴見製鉄造船12号機となった。煙突より後ろの位置に先輪があり、シリンダーがさらに後方にずれ缶だけが先走った姿をしていた。
(臼井茂信著: 機関車の系譜図2の記述より)

カン高いホイッスルを鳴らし現れたクラウス12号機

日本鋼管 12号機  弁天橋  1964.12.25


引き続き熔銑車2両を牽いて現れたのはボールドウィンCタンクで10号機であることが写真で判る。このボールドウィンは9号と10号があり同タイプのようで明治村へ行ったのが9号機らしい?
日本鋼管鶴見の内部に入って調査された田辺幸男様のサイトに9号機の銘板(ボールドウィン製番)の写真があり9号機の製番37944は明確になっている。
元は富士身延鉄道1~3号で、その2号と3号が日本鋼管鶴見の10号と9号になったらしい。

 
熔銑車を2両牽いてやってきたボールドウィン10号機
 
日本鋼管 10号機  弁天橋  1964.12.25



浅野で見た産業用機関車は協三工業製28トン機で、日本鋼管鶴見製鉄所の18、19号機として1951(昭和26)年に製造された。協三で製造した最大(重量)の機関車である。
(臼井茂信著: 機関車の系譜図3による)
 
日本鋼管 18号機 浅野 1964.12.25
 



4 件のコメント:

Cedar さんのコメント...

ゲテモノ、ってコトバも今や死語なのでしょうか?京急や川崎市電には関心向けていたのですが、こんなのが潜んでいたとは・・・・京浜工業地帯は奥が深いですね。

lodgershinmeishrine さんのコメント...

katsu様
これです。この3輛です。動画では判別出来なかった番号がはっきり分かります。有り難うございます。
田邊幸男様に見せたかった‥‥

katsu さんのコメント...

Cedarさん
ゲテモノのコトバはまだ生きていると思います。
川崎・鶴見の工場地帯の専用線は昔 蒸機マニアにはよく知られていました。
特に明治大正生まれのクラウスやボールドウィンなどの美しい輸入機は、塀の中に生息している貴重な生き物に思えました。
産業用機関車まで含めると大変な数の蒸機で、確かに奥深い地帯であったと思います。

katsu さんのコメント...

lodgershinmeishrineさん
動画lodgershinmeishrineの「日本鋼管鶴見製鉄所のSLたち」は丁度私が見た3両と同じでしたね。
あの時の3両がその後 昭和41年にまだ動いていたのですか。珍しい1B型のクラウスなどがよく生き延びたものです。
田邊幸男様にはメールのやり取りでいろいろと今回の情報提供を戴いております。