案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2010年12月17日金曜日

東急玉川線 砧線の今と昔2

今度は終着駅 砧本村から二子玉川へ、1962(S37)年当時の光景です。


 砧本村の駅。 1962年12月

砧本村で降りるとワカモト製薬の工場があるだけであった。

砧本村を発車すると畑を見て二子玉川へ向かう。 砧本村 - 吉沢


背後には多摩川の土手が近い。  吉沢 - 砧本村 


鉄橋を過ぎ吉沢駅を出て踏切の先を右へカーブすると直線区間に入る。吉沢 - 中耕地

踏切の先を右にカーブし二子玉川へ向かう廃線跡。  '10.12.15

直線区間  吉沢 - 中耕地

直線区間の廃線跡。 吉沢 - 中耕地  '10.12.15

二子玉川駅 1962年12月
最後に48年前の二子玉川の光景をもう一度。
今のきらびやかな二子玉川駅前の光景はここから生まれた。

2010年12月16日木曜日

東急玉川線 砧線の今と昔1

国分寺崖線に沿って流れる仙川沿いに成城から二子玉川まで歩いてみました。

国分寺崖線の自然が残された外岡本静嘉堂緑地あたりから南下すると、あの吉沢橋交差点に出る。ここは昔、玉電砧線の踏切があり、その脇が吉沢駅でその先に軌道の鉄橋があった。
子供の頃、兄の蛇腹式セミ判カメラを借りて、ここで砧線を撮ったのが私のカメラ初体験であった。
その後撮った1962(S37)年の光景をスキャンしてみると、激変の砧線そして二子玉川界隈であった。



仙川沿いに遊歩道を歩き南下して二子玉川方面へ。 '10.12.15


吉沢橋交差点。  '10.12.15
昔、手前(二子玉川)から来た砧線は、多摩堤通り(左右に走る)を横切ると
右手角のマンションの前あたりに吉沢駅があった。
その先にあった吉沢鉄橋(軌道専用)は、今は大きな道路の橋になっている。
小さな吉沢鉄橋を渡っていた砧線。道路はなく軌道専用の橋であった。  1962年12月
吉沢鉄橋。


↑ カーブして二子玉川駅に侵入する。右は玉川線本線。
背後の崖が国分寺崖線で等々力方面へ続く。
夕闇せまる玉川線の二子玉川駅。ホームの右に砧線が停車している。

右の一段上がったところが大井町線のホーム。


昔の寂しげな駅からは想像もつかない光景に激変した二子玉川駅前。'10.12.15

2010年12月9日木曜日

東野鉄道 廃線跡めぐり 黒羽

44年前に見た黒羽駅の光景や鉄道の沿線風景。あの時の12月午後の日差し、青い空に白い雲、遠くに望む那須の山々、那須おろしの寒風など、今も変わらぬであろう東野鉄道の空気を吸いに廃線跡を訪ねてみました。

黒羽へ向かう廃線跡  '10.12.8
廃線跡(道路)の先を右へカーブすると元黒羽駅に到着する。黒羽の町には那珂川が流れ、対岸に那珂川沿いに八溝山へ連なる山並みが続く。

茶臼岳を背景に大田原へ向かう廃線跡。 白旗城址前停留場はこの辺り。
反対側の大田原方面を見ると、日光から連なる那須の山並みが背景に。12月の那須おろしの寒風が吹くこんな風景の中を、1968(S43)年まで流線型キハ501気動車などが走っていた。

黒羽駅の農業倉庫 '10.12.7
元線路(道路)が右へカーブして黒羽駅に入る処にあった農業倉庫は昔のまま連なり、手前にある赤い屋根の倉庫は当時の「農業倉庫」の文字と紋章がそのまま残っていた。


買い物客で賑わうこの場所が黒羽の駅であった。


黒羽駅があったところ。
農業倉庫とプラタナスの木を基準に駅の位置関係をみると、右手のスーパ「さかいり」が駅本屋、道路が駅ホームそして線路、左手のホームセンター「コメリ」あたりが機関区があった位置と思われる。


44年前の黒羽駅。  1966.12.30


昼下がりの東野駅。

2010年12月7日火曜日

東野鉄道 五日市鉄道から来た気動車

東野鉄道の初回(5月11日)にアップしたように、流された蛇尾川鉄橋の手前 西那須野~大田原を区間運転していたのが、元五日市鉄道の流線型17m車キハ501でした。
正面が国鉄42000と同型の流線型だが、42000のような3ドア大型車ではなく、41000に42000の丸い顔をつけたような好ましい気動車であった。オデコライトがとても魅力的。

西那須野と大田原間を往復するキハ501。  大田原近く  1966.12.30

西那須のから来たキハ501。 大田原近く
前回アップ済み画像を再調整しました。

キハ501。 41000の頭部に42000の流線型をつけたような気動車。





2010年12月1日水曜日

川のフチにあった飯坂温泉駅

1982(S57)年12月に飯坂温泉の駅の改築があったようです。
1966と68年に撮った飯坂温泉駅と摺上川の位置関係が、今の地図とは違っているのはそのためのようです。以前は線路の車止めが摺上川ぎりぎりの位置にあったが、昔のホームの処に新駅舎を作りその分ホームを移動後退させたようです。


Aの処が新駅舎

川のフチにあった飯坂温泉の駅。  広窓のモハ1202      1968.12.15

直ぐ下を川が流れる飯坂温泉の駅。  1966.12.31


川を挟んで大きな温泉ホテルが並ぶ。 1968.12.15

2010年11月30日火曜日

福島交通 坂温泉行きの電車1

ひなびた軌道線の湯野町駅から飯坂温泉に向かうと、街中には立派な温泉ホテルが多く、その中にある飯坂温泉駅はそれまでの軌道線とは違って別世界であった。飯坂温泉駅には乗客も多く駅も電車も奇麗で立派な電鉄であった。
規模が大きい有名温泉地のせいか、街もアカ抜けし鉄道に並走する道路も舗装され泥だらけのよう光景はここにはなかった。最新型の連節式電車などがバンバン走っていて、余りにもアカ抜けしていたため、訪問したことが全く記憶に残っていない鉄道であった。おかげで飯坂温泉から福島へ向かう途中に撮影した場所も不明で、marimoさんに調べてもらいやっと確定しました。marimoさんありがとうございました。


温泉客で賑わう飯坂温泉駅。 S38年新製のデハ5012-5013  1966.12.31


道路と並走し飯坂温泉に向かう電車。この年に新製したモハ5114

擦上川の鉄橋


曽根田の車庫風景。 モハ1209と1208 右はモハ1211     

モハ1209と1208 幅狭窓の15m車 曽根田

モハ1202 1955年日車製広窓の15m車     曽根田


モハ1205と1204 1948年手塚製作所製の12m車。  曽根田


2010年11月26日金曜日

蒲原鉄道 畑の中の高松


村松行きの電車の先に高松の駅が見える。 1968.8.17
土倉を更に行くと、右手にカーブした先の畑の中にポツンと小さな駅(停留場)高松があった。
駅前には大粒のブドウがびっしりと垂れ下がったブドウ棚があるだけで人家は全く見あたらない。
日記に書かれたメモによればこの辺に温泉があったようで、調べたら鉄道が見える温泉金割鉱泉の楽しい記事があった。

夕陽を浴びて加茂行が高松駅に到着する。
高松で撮影を切り上げ小さな駅で加茂行き電車を待つ。
電車の時間が近づくにつれ、いつの間にか乗客が何人も集まってきた。大きな鞄を持って都会的な服装をした女性数人はきっとお盆で帰省していて都会へ戻るのだろう、畑の中の停留場が一瞬華やいだ。
こうして夏のお盆が終わる夕方、加茂へ向かう電車の中はお盆明けの客で満員であった。

越後交通栃尾線 夜の長岡駅 1968.8.17
加茂から長岡に出て一泊。栃尾線を確認してみるとこの時はまだブドウ色の時代であった。

2010年11月25日木曜日

蒲原鉄道 冬鳥越

五泉(手前)から村松(前方の町並)まではこのような田園地帯を走るが、村松から先は起伏のある地形に一変する。加茂行き電車は村松を発車すると、遠く栗が岳?の美しい山並みを背景に丘陵地帯の連続勾配を登って行く。

それまでの平地と異なって丘陵が迫り、寺田~大蒲原~高松あたりの風景が素晴らしかった。
さらにその先にある「冬鳥越」の駅名とトンネルに惹かれて冬鳥越に降りてみたが、駅周辺はスキー場やゴルフ場がある箱庭的な観光施設でがっかり。ここから歩いて五泉方面へ引き返してみた。
冬鳥越の駅を出た五泉方面行き電車が手前のトンネルに入る。      1968.8.17
冬鳥越のトンネルを越え五泉側に出ると、木立の下に小さな無人駅土倉が見え絶好の撮影ポイントであった。やって来たのは貨車1両を従えたモハ31で、かなりの上り勾配なのかノッソリ-ノッソリ近づいてきた。
土倉駅を出た加茂行きの電車

土倉 - 高松
全くひと気のない自然溢れる沿線風景であった。
土倉 -高松