撮影:1963.4.4
奥山駅
かっては奥山半僧坊の入口で栄えた奥山駅。裸電球の下の改札口に子供が二人、ベンチ脇にホウキとバケツとが並んでいる。日中はたった一往復の便でありバス利用が主であったのでしょう、駅に乗客の姿はほとんど見かけなかった。桜が満開の最後の日々。
気賀口で大きく右へカーブし引佐の街外れを通り山間を進むと、まもなく奥山に到着する。行先表示板は既に遠鉄浜松行になっている。
左にカーブして竹藪の脇で小さな鉄橋を渡ると奥山に到着する。こんなのどかな奥山も今では高速道路が通り、近くに「いなさ」ジャンクションが出来て全く面影が残っていないでしょう。
11 件のコメント:
いつも素晴らしい写真楽しんでおります。一枚目の1804の側面窓下にさがっているものはなんでしょうか。ご教示いただけたら幸いです。YutariouNakao
YutarouNakaoさん
この4月末の廃線を迎えて奥山駅にあった竿を浜松方面に運ぶなど廃線の準備?? 五月節句鯉のほりの竹竿のニーズ?? など推測します。正確なことは分かりません。車内の床に置いてもよいと思いますが乗客に迷惑になるのであんな運び方をしたのでしょう。
「ながい間ありがとうございますした さようなら奥山線」の垂れ幕の準備かと思いました。
石鉄さん
タイミングからすると廃線の垂れ幕それも考えられますね。
写真の1年半後、1964年10月末の全線廃止では大変派手に垂れ幕を付けて走っていました。
写真の気賀口~奥山間は部分廃線であり、ひっそりと消えたと思います。
Katsu様 ご教示いただき有難うございました
つい先週、半僧坊へ参ってきたところで驚いています。
半僧坊との高低差はかなりのもので、急傾斜を降りきった谷底にバスの車庫がありました。
二枚目の写真の桜並木は今も面影が残り駅舎の位置は特定できそうです。
当時の裏山が禿山だというのも驚きです。戦時中の過剰伐採の証拠でしょうか?
匿名さん
コメントありがとうございます、奇遇ですね。
つい先週に半僧坊へ行かれたのとは私も驚きました。
バスの車庫とは昔奥山駅があったところですね。今も桜並木がありましたか。
15年くらい前に奥山駅跡に行ったことがありますが、
川の土手でなんとか駅の位置が推測できました。
当時の裏山が禿山とは気がつきませんでした。よく見ると確かに木がないようですね。
今はこの一帯の風景は一変してしまったことでしょう。
あれから56年も時が過ぎていました。
私はタッチの差で奥山までは行けませんでした。キハ1804は乗っています。馬力があって、金指で同時発車した国鉄のキハ20をぶっちぎったという話も聞いています。
モハメイドペーパーさん
気賀口から奥山までの部分廃線はほんとうにひっそりと消えた感じがします。
キハ1804はもし尾小屋へ行っていれば今も大切に保存されたでしょうね。
金指で二俣線との並走では下り勾配にもかかわらず国鉄キハに差を付けられました。
今週末の綿商会館の講演会ではフクシマ学校の話が出てくるみたいで、
50年以上昔の人の繋がりの話が楽しみです。
こんにちは、お久しぶりです。
前にも書いたと思いますが、奥山線は基本的に赤字基調だったようですが、昭和30年頃?それよりも少し前?に多少の近代化工事をしています。
それによって特に電化区間は所要時間が短縮化されて利用客が増えた時期もあるようです。
多少の近代化だけでなく、西鹿島線のように頑張って1067ミリ化して奥山線の列車も新浜松駅まで乗り入れできるようにしておけば、貨物も旅客ももっと見込めたかもしれませんね。
現在奥山駅の跡地は遠州鉄道バスの待機所になっていて、とても静かです。
奥山半僧坊も観光のために来る人もすっかり減ってしまって、お土産屋さんもかろうじてほんの2件くらいが営業していたと思います。
U-BOATさん
50以上も昔、遠鉄と接触があり立派な会社だなと思っていました。
当時すでに浜松周辺一帯にバス網があるもののそれに道路整備が追いつかなかった感じがします。
西鹿島線は先を見越していたのか、その後それほど変わりがなかった路線だと思います。
地方都市のマイカー問題で西鹿島線はますます栄えていってもらいたいものです。
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