案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2018年6月27日水曜日

雲仙鉄道 廃線跡2

肥前小浜駅跡の画面からスタートし、57号島原街道から別れて201号(廃線跡)を北上する前面展望の動画をリンクさせてもらいました。
この前面展望を見ていると遠い昔に雲仙鉄道がどんなところを走ったかを偲ぶことができ、まるで気動車に乗っているようでした。

小浜からしばらくは山並みを右に左に勾配を上る。海沿いに平地は無くかなり高いところを走り、峠を越える感じだ。何か所か駅名票建てた駅跡があり、木津の浜駅跡では道路沿いにしっかりホームが残っている。

道路は千々石駅跡がある集落を抜け一気に海岸線に接近すると、そこは滅多にクルマも来ない崖下の海岸ぎりぎりの道路が延々と続く。よくぞこんな波うち際を1号蒸機や気動車カハ22などが走ったものである。しばらく波うち際を進むと濱駅跡の先で廃線跡は途切れた。

前面展望で走った201号線(廃線跡)をgoogle地図上に赤で示してみました。


地元の地方私鉄ファンが撮影された廃線跡 前面展望で、リンクを了解戴きました。

50年前に確認した展望台の崖下を海岸沿いに走る廃線跡。
この先、50年前には展望台下を海岸線に沿って走り愛野までそれと判る道があったのですが、今は通れるか不明です。当時も愛野近くになると農道や私道、果ては家があったりしてましたから。 車楽齋さんの写真とコメント。

                    ずっと先に小浜温泉がある。↓

雲仙鉄道カハ22と同時期に日車で製造された加悦鉄道キハ101で、バケット除く車体はカハ22と同形。加悦キハ101の片ボギーを偏心台車と交換しボギーすると、雲仙カハ22になるのでしょう。

2018年6月22日金曜日

雲仙鉄道 廃線跡1

温泉軽便鉄道と小浜温泉鉄道が雲仙鉄道となり、昭和13年まで愛野~雲仙小浜まで走っていた。昭和42年、諫早からバスに乗り、小浜温泉で島原行きバスに乗換えて島原へ向かった時の車窓がこの写真であった。愛野~小浜温泉間の廃線跡が道路となってはっきりと今の地図に残されている。

千々石

50年前の風景 千々石駅跡の手前 1967.3.3
昭和42年、諫早から島原鉄道バスで雲仙へ向かうときだったが、愛野で島原鉄道と別れて島原街道を進むと車窓に海岸沿いの美しい風景が開けた。この辺りに雲仙鉄道の廃線跡が見え、右手に進むと廃線跡は海岸に接近する。

この写真に小浜温泉鉄道の廃線跡が見えるのを、4年前にコメントで教えて戴いたのが車楽齋さんで、てっきり地元長崎の方と思っていたら、来週お目にかかる身近な人であった。

別府鉄道の1号機と2号機.雨宮1Bタンク機 別府機関区 1962.7.28

旧温泉鉄道を走っていた1号機は、1922年雨宮製作所製の1B形 27t級タンク機で4両製造された内の1両であった。2両が別府鉄道に行っている。「機関車の系譜図」3 臼井茂信著より。
こんな蒸機が客車を牽いて波穏やかな橘湾を眺めながら走っていたのだろう。

そして、こんな気動車も走っていた。元雲仙鉄道カハ22→ 日立電鉄サハ1101。
RM LIBRAY 第64巻「日立電鉄の75年」より。

島原街道から離れて海沿いの丘陵を行く201号線が雲仙鉄道の廃線跡。

やっと分かったこの場所、ここは小浜温泉の中心部? 1967.3.3
旧小浜鉄道の雲仙小浜駅跡がこの北方にある。

小浜から雲仙に向かうバスの車窓

2018年6月10日日曜日

大手書店の店頭販売

本の宣伝です。
紀伊國屋書店 新宿本店では地下の鉄道図書コーナーで、よく目につくこんな展示↓をして10セットほどをビニール包なしで置いてありました。これまで店頭販売は書泉グランデなど特定店のみでしたが、大手書店で置いてくれると有り難いです。



堀越さんのサイト「蒸気機関車がいた時代」で掲載戴いている書評です

2018年6月1日金曜日

浅野川線 内灘~粟ヶ崎海岸

内灘駅から粟ヶ崎海岸駅までの軌跡を推定してみました。
内灘海水浴場、試射場指令室跡、粟ヶ崎海岸駅跡、内灘駅の位置はこんな関係に。

この廃止区間が海水浴客輸送だけではなく、どんな戦時色があったのか、なかったのかを知りたくなってきました。休止、再開、季節運転、廃止の歴史はそんな背景と関係があるのではないでしょうか。

Googleに粟ヶ崎海岸駅跡の表示があり、赤ラインで廃止区間(内灘~粟ヶ崎海岸駅)を推定。

2004年に撮った内灘海岸の表示では砲弾をトラックで運んだとある。

内灘の歴史を何も知らない私が、お粗末な京セラ初期デジカメで撮ったこれら2004年の写真。
内灘駅から道路を直進すると殺風景な海岸に出た。2004年

朝鮮動乱末期に浅野川線で運ばれた米軍試射場の砲弾は、貨物駅内灘でトラックに積み替えられ鉄板道路を走ったとすると、内灘~粟ヶ崎海岸までの線路は米軍の砲弾輸送に使われなかったことが考えられる。

元々この試射場は戦時中には陸軍に使われていて、その後、朝鮮動乱で米軍がここに目を付け日本(大阪)で製造した砲弾の試射場として使ったそうである。
米軍試射場跡の案内板によれば、昭和28~32年に海辺が広範囲に試射場に使われたことが分かる。このことから、この時代は海水浴客輸送は無かったことになる。

内灘~粟崎海岸間の歴史は下記のようになります(代打・山本さんの調査による)
 昭和4年7月14日 新須崎~粟崎海岸間開業
 昭和20年2月11日粟崎遊園前~粟崎海岸間廃止
 昭和20年10月1日 北陸鉄道に合併
 昭和25年7月1日 粟崎遊園前~粟崎海岸間開業認可
 昭和49年6月29日 内灘~粟崎海岸間廃止許可