撮影 1963.3.31
崖の下の流山駅奥の佇まい.
この小屋がフロ場でしたか! 給水タンクの水を小屋に引いて従業員用フロ場としたのでしょうか. 少し前までボールドウィンのサドルタンクが使っていた給水塔でしょう。
そして奥に小さな電車庫、まるで模型のような世界。
以下も再掲ですが懐かしき流山電鉄の風景を大きい画像で。言い尽くされた車両の型式や経歴などはどうでもよく、この時代の沿線風景が懐かしいものです。
右手に醤油工場に行く引き込み線があった.
沿線は自然豊かで長閑な田園風景だった.
この頃の馬橋駅にはローカル私鉄のりかえ駅の風情が溢れていた.
6 件のコメント:
あの〜…流山電鉄って、今も画像のイメージとそんなに変わらないと思っていました…��
そうしたら、武蔵野線の新松戸で降りて幸谷から鰭ヶ崎まで乗ったのですが…自分が浦島太郎だった事に気付きました。
esehokuさん
今やどこの路線も大変な様変わりに驚きますね。
沿線風景や車両に昔の面影はなし。
流山電鉄は東京に近いので様変わりも激しいと思います。
あの時は流山や竜ケ崎線を訪問したのですが、
竜ケ崎線は今も一面に田畑の広がる風景をテレビで見て意外な感じでした。
こんにちは。
今日も貴重なお写真を楽しませて頂きました。
近くて遠いと言いますか、いつか乗りたいと思いながらいつも後回しになっていたこの路線に、数年前に初めて乗りました。
お写真の当時と比べれば、沿線に宅地も増え、武蔵野線やつくばエクスプレスなど、なかった路線が地域を東京の通勤圏に変えた結果、長閑な風景は徐々に失われていったのだと思います。
それでも、終点の流山駅の風情は今も変わらず素晴らしいですね。小さな車庫に電車が佇む光景は、まさに模型のようにかわいらしいものです。
醤油工場への引き込み線があったり、馬橋駅で国鉄線との間に貨物の継走用の線路があったり、時代を感じさせられます。
お写真、楽しませて頂きました。
今後とも、宜しくお願い致します。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/
風旅記さん
大変ご無沙汰しております。
貴ブログで鳥海山をバックにした由利高原鉄道の写真に魅了され、あれから6年が経ちました。
あの頃まだ無名だった鳥海山の路線もその後有名になりの車両交代もありすっかり関心薄くなってしまいました。
あのころ私はブログを始めたばかりで、その後6年もブログを続けられるとは思ってもいませんでした。
この6年間、他にやるべきことをおろそかにしブログに時間を掛け過ぎた反省があります。
東京通勤圏の身近な流山電鉄、その後いかに変貌したか私も行ってみたいものです。
今後ともよろしくお願いいたします。
こんにちわ。
貴重な数々の画像を楽しませていただきました。
ひとつ気になった画像があったので一筆執らせていただきます。
7枚目に「右手に醤油工場に行く引き込み線があった」とありますが、こちらは流山糧秣廠専用線ではないでしょうか?
醤油工場への引込線は流山駅構内から右急カーブを描いていましたが、本線側はほぼ直線であったと思います。
そして流山糧秣廠専用線は同じく本線から右分岐していましたが、こちらは本線側が左カーブ、流山糧秣廠専用線側はほぼ直線であったと思います。
昭和45年ごろまでこのあたりに伯父が住んでおり、醤油工場への引込み線は既になかったと思いますが、流山糧秣廠専用線は残っていたように記憶しています。
乱筆乱文にて失礼しました。
toruさん
貴重な情報ありがとうございます。
ご指摘の通りです。
改めて当時の流山駅の線路配置メモを見ると貨物駅がありそこから工場へ引き込み線がありました。
そこに、まんしょう醤油運搬、国鉄乗入れのメモ書がありました。
本線で左カーブするところから分岐する線は醤油工場ではありませんね、ご指摘の通りです。
流山駅のこの醤油工場の引き込み線は記憶からそっくり消えて、その先の本線からの分岐線とばかり思っていました。流山駅を改めてブログにアップしたいと思います。
ところで、いろいろ古い写真をネット調べて行くとよくあるのが無断使用です。
今回も流山駅駅舎(女学生二人が日向ぼっこ)の写真が無断使用されていました。
探し出したら切りがないと思いますが、ほんとうに困ったものです。
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