案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2012年7月31日火曜日

今日の1枚 八高線高麗川駅

灼熱の八高線高麗川駅.  2012.07.31
前回の八高線金子~東飯能に引き続き、東飯能の先の山間を越えた次の高麗川駅まで行ってみました。

現在の八高線は八王子発川越行き電車がここから川越線へ乗入れて、八高線非電化区間の高崎行気動車はここから発車していた。昔の駅の貨物線や機関区あたりの雰囲気がまだ残っているような感じであったが、昔といってもあれから45年も経った遠い昔の事である。

1960年代後半、高麗川駅には八高線、川越線、日本セメント(現太平洋セメント)専用線と様々な列車がやって来て駅構内や周辺沿線は恰好の撮影場所であった。まずは当時の高麗川駅の風景と高麗川駅にやって来る列車の沿線風景を集めてみました。
高麗川の機関区に休む蒸機、日本セメント専用線と石灰石列車などについては次回以降に続けてみます。


昭和42年の高麗川駅. 列車はC58 D51が牽く「八高線高尾臨」  1967.02.03   クリックで拡大
今でも残っている地下連絡通路


96が牽くセメント工場専用線の貨物.  1965.05.30

八高線D51と川越線キハ35系の出会い.  1966.08.05


八高線石灰石列車の東飯能-高麗川間の山越え.  1967.02.03

川越線 東飯能発大宮行.  東飯能-高麗川 1967.02.03

川越線96の旅客列車. 武蔵高萩 1966.08.07


高崎発高尾行き節分列車「八高線高尾臨」が高麗川に到着  高麗川-毛呂 1967.02.03


2012年7月28日土曜日

八高線 金子~東飯能

金子駅から東飯能に向かうと、入間市の台地から飯能市へ下る金子の坂がある。うっそうとした丘陵地帯を下り、なだらかなカーブを左へ向かうと飯能市の桑畑や池のあるのどかな平地に出てほっとしたものだった。
青梅線拝島から高麗川(日高市)のセメント工場まで石灰石を運ぶD51貨物列車が走る平凡な八高線沿線風景の中で、この区間だけは変化ある風景であった。蒸機の中では平凡なD51であったが手軽に行けて蒸機の撮影が楽しめる八高線であった。



金子の坂の下に飯能市の平地が開ける. 1966.03.27


炎天下、金子の坂を登るD51重連貨物列車. 1966.07.28


石灰石輸送列車が金子坂を下り高麗川へ向かう.  1966.07.28


うっそうとした丘陵地帯の金子坂. 1966.07.28


桑のある畑や溜池がある飯能の平地.   1966.03.27
たまにC58の貨物列車も見る事ができた.

高麗川へ向かう石灰石輸送列車.  1966.03.27


入間川の鉄橋を渡るD51貨物列車. 1966.03.27

2012年7月25日水曜日

今日の1枚 八高線金子駅

八高線金子駅  2012.07.25
今日、用事で何十年ぶりかで拝島から八高線に乗り金子駅に降り立った。
八高線はとっくに電化され昔の面影はなく、駅前でスクールバスを待つ学生たちの華やかさに今の時代を感じたが、それも学生たちを乗せたバスが発車してしまうと昔と変わらない駅前の静寂があった。

昔、この金子から東飯能にかけてよく八高線を撮りにきたことがあった。もちろん駅で車両だけを撮るなんて事には全く関心がなかったが蒸機は別格であった。

金子駅を発車したD51重連が拝島方面へ向かう    1966.09.29



引き返してきた石灰石空車列車 金子駅 1966.9.29
前回→八高線金子駅界隈


石灰石列車が通過する箱根ヶ崎駅の風景  1966.03.27

八高線拝島駅での日常風景であった. 1966.03.27

2012年7月20日金曜日

米坂線のキューロク 2

米坂線を訪問したのは昭和46年5月の連休であった。
社会人になってやっと手に入れた中古カローラの屋根にスキーを積んで月山の春スキーに行くのが目的であったが、最上川沿いに白銀の朝日連峰を見ながらのんびり北上し気ままな鉄道撮影の方が本来の目的であったかもしれない。

米坂線の96は冬の米沢駅で何回か見ているが、米坂線沿線に入るのはこの時が初めてであった。
マイカーを使った鉄道撮影もこれが初めて、初日は米沢から米坂線に沿って今泉の先の長井の駅前旅館に泊まった。
翌朝5時に宿を出発し朝の列車を米坂線のメッカ手の子~沼沢間の宇津峠越えで狙った。
朝の上り122レ旅客列車は不安がよぎったが96の牽引でほっと一安心。
この頃の旅客列車の牽引はDLに置き換えられ、96の旅客は朝の1本のみでそれ以外の96は全て貨物牽引ということであった。まあ貨物でも大好きな96が撮れれば満足であった。

手の子から沼沢、伊佐領、と場所を変え小国まで行って引き返し、この日は手の子駅前にあるSLマニアが集う宿「山形屋」に泊まった。宿泊者は鉄道マニアか写真趣味の人たちで楽しい宿であった。
地方私鉄ではこういう一極集中のメッカがないので同好者と同じ宿に泊まることはめったにないこと。さすがSLブーム到来の時代だったのだろう、宇津峠越えでは三脚を持ったファンをいたる所で見掛けた。既に米坂線SL撮影の良き時代はとっくに終わっていたのだろう。


小国駅の96  1971.05.02
拡大します→オリジナルサイズ

2012年7月18日水曜日

米坂線のキューロク 1



宇津峠に挑む96  沼沢-手の子  1971.05.02



朝の旅客122レ 沼沢-手の子  1971.05.02

96の貨物列車 沼沢-手の子  1971.05.03


朝日連峰を望む今泉で休む美しい96.   1971.05.03


沼沢-伊佐領 1971.05.02


小国-松岡  1971.05.02


小国-松岡  1971.05.02

2012年7月15日日曜日

通りすがりの高松琴平電鉄 昭和44年

高松琴平電鉄を訪問した時は、土佐電を撮った後、23:38高知発の高松行き快速夜行で車中泊し3:40着の高松駅のベンチで仮眠し朝を待つという強行軍であった。
高松築港駅から栗林公園まで往復しただけの通りすがりの訪問であったが、琴電ならではの前歴様々の凄い電車に出会うことができた。

元国電の6000形
元阪神881形の30形と50形
開業からの3000形
元国鉄買収富士身延鉄道の12000形
自社発注の1010形
元玉野市営電鉄の750形など


6000形610(元国電) 高松築港 1969.5.6



50形と3000形が行き交う 瓦町  クリックで拡大


元阪神小型車が6両も揃っていた.30形34と50形56


3000形325 高松築港


12000形1202   栗林公園


1010形1012  栗林公園

雨の栗林公園   1969.5.6

2012年7月13日金曜日

宇高連絡線

1988年に瀬戸大橋が開通するまでは、
玉野市営電気鉄道のある宇野駅と対岸の高松駅の間に「宇高連絡船」が運航されていた。
国鉄高松駅に近い高松築港駅からは高松琴平電気鉄道が今も走っている。
玉野市営電気鉄道の開業時は電気鉄道でモハ100形101~103の3両がいたが、経費節減の内燃化で
不要となった電車3両が対岸の高松琴平電鉄へ移籍している。
玉野市営電鉄へ向かう途中に立寄った高松琴平電鉄ではこの元玉野市営の電車が走っていた。



宇高連絡線から見た高松港風景.ここに琴電の高松築港駅がある. 1969.5.6

高松琴平電鉄770(元玉野市営モハ101) 栗林公園     1969.5.6


2012年7月11日水曜日

宇野の小鉄道 造船所裏の箱庭風景

大聖寺前と三井造船所前の駅の間では小さなストラクチャーや山川を寄せ集めた
まるで模型の箱庭のような風景が見られた。

造船所裏の車庫の脇に張りついた小さな駅。
ポイントが3基ある小さな車庫。
造船所と川の間の狭い土地に敷かれた線路。
大聖寺の山の下のカーブに設けられた小さな駅。
線路に沿って流れる白砂川、鉄橋、踏切、そしてトンネル。


大聖寺前   1969.5.6
造船所の裏手にある大聖寺駅は見る方向で様々な表情をしていた。

トンネルを出ると民家の間を走る.  大聖寺前-玉野保健所前


大聖寺前-三井造船所前


造船所裏の側線に放置された元野上電鉄の小さなクハ201. 大聖寺前-三井造船所前


造船所と車庫の間に小さな駅 三井造船所前がある.


造船所裏の車庫の中ではキハ104が休む.  
元熊延鉄道のヂハはキハ102~104の3両が在籍していた。


国鉄宇野駅の片隅にあった「玉野市営電鉄のりば」 ここから小鉄道が出発する。
電鉄の名称が残っているが、この5年前に電気→内燃に切り替えていた。

2012年7月10日火曜日

宇野の小鉄道(リニューアル)

玉野市営電気鉄道。
宇高連絡船の宇野駅から、玉遊園地前駅まで4.7kmの小鉄道。
海と山に挟まれた狭い街を通り抜け、まるで模型の箱庭のような感じであった。
経費節減で動力が電気から内燃機に変更され、熊延鉄道の廃線でやってきたキハ102、103が往復していた。1972年に廃止された。



宇野から来て右にカーブするところに玉駅があり、そこから終点に向かって川に架けた軌道を行く。 1969.5.6



川の上を行く気動車.終点の遊園地前は何もない行き止まりであった。


終点の玉遊園地前