案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2011年2月22日火曜日

松尾鉱山のこと (続)

松尾鉱業鉄道について、更に画像アップ(一部再アップあり) してみます。
松尾鉱山の人達はこの列車に乗って大更で国鉄花輪線に乗り換え、盛岡などへ出たのでしょう。
列車が大更から東八幡平へ戻って来る時は、上り勾配を超スローで牛車のようであった。

発車間近の混合列車。 東八幡平  1966.3.2


山を下りて来た混合列車が大更に到着。

ハチロクの列車が走っていた国鉄花輪線。 大更駅
松尾鉱業鉄道からの乗客は国鉄「花輪線のハチロク」へ乗換え盛岡方面へ向かう。


大更から客車1両牽いて戻って来る列車。

遠い昔はこんな客車の混合列車が走っていたのでしょう。
東八幡平 1966.3.2

↑ 郵便荷物車 ユニフ1。 大変な古典客車

↑ ナハフ8  東八幡平

↑ ハニフ4 ?

↓ラベルの鉄道名クリックで、アップ済み松尾鉱業鉄道が繋がります。

2011年2月15日火曜日

葛生のナロー 2

1971(S46)年の春は、このモノクロ写真でした。
昨日アップしたカラー写真は、この3年後1974(S49)年の撮影で年月日を訂正させて頂きました。

やっと車が持てる時代になり、車で鉄道を撮りに行くのはこれが初めて、日記には「確かに便利だが足で歩いて撮りまくったあの充実感がない・・」とだけ記載があった。
写真以外には記録もなく、モノクロ写真と3年後のカラー写真を比較してみると、この時はまだ小さな3トン鉱車が使われていて、3年後のあの巨大な鉱車ではなかった。小さな3トン鉱車がいかにも鉱山トロッコ風で好ましい感じがしたものだった。

森を行く原石列車。  1971.4.25

小さな道と踏切、小さな川と橋、木立の中の小さな列車、中々楽しい光景であった。


3'6''ゲージとナローが並走する区間。


上下列車の交換。

牽かれる3トン鉱車が22両。

鉱山まで作業員を運ぶ人車は、日中、唐沢鉱山の隅で休んでいた。

2011年2月10日木曜日

山陽電気軌道 路線図

山陽電気軌道の路線図を下記します。
幡生駅を発車した彦島口行きは、唐戸を通り下関駅前から更に彦島口まで向かいます。


東下関駅~幡生駅  2.2km (幡 生 線)
唐戸~東下関駅  2.3km (市 内 線)
下関駅前~長府駅  11.7km (長 関 線)
彦島口―下関駅前 1.4km (大和町線)


専用軌道から併用軌道へ入ったところ。  1967.2.27


市内から来た電車が東下関駅に到着する。
511~515は元三重交通神都線のモ511形。