案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2020年7月31日金曜日

淡路への道

昭和40(1965)年、夏休みの淡路行は旅の相棒さんと淡路まで一緒でその後のコースは別行動にする二人の折衷案でやっと決定した。淡路まで東海道線ではなくわざわざ信越本線に乗って北陸本線直江津から夜行で大阪へ向かうコースは、とりわけ信越本線長野以遠の蒸機列車を楽しむ大きな目的があった。

初日8月1日は上野発6:24の長岡行鈍行列車に乗って信越本線の旅がスタートした。高崎からは登山やキャンプや避暑に行く若者たちで超満員、デッキに立つのが精一杯であった。

良き時代の上田丸子電鉄。


左の列車が長野に到着した長岡行鈍行のようだ。隣は飯山線のC56


長野では殆どの客が入れ替わった。ここからは待望の蒸機牽引で列車編成が短いのでD51単機であったが途中でD51重連となり後部にC57補機をつけた。

車窓の風景

長野から蒸機鈍行列車と車窓を楽しむ。

柏原(現黒姫)に14:20分頃到着、そこへやってきた上野行急行「白山」。D51重連の急行列車が素晴らしい。田口(現妙高高原)や柏原(現黒姫)からこの「白山」で上野に戻る避暑客が多いのだろう(上野着19:53)。

直江津で北陸本線の大阪行鈍行に乗換え、糸魚川の東洋活性白土の2フィーターを車窓に見て親不知を過ぎる頃から日本海に沈ん行く夕陽を眺める。富山では夜行で大阪方面へ向かう登山客がどっと乗り込んできて車内の客は入れ替わってしまった。
それにしても若者たちが楽しむ夏休みと違って、我々鉄ファンの夏休みはどうしてこんな仕事のような旅をせねばならないのか、ほんとにこれで良いのか悩まされたものだった。


大阪から快速で明石まで行き船で淡路島の岩屋へ渡りそこから急行バスで洲本へ向った。洲本までの道路は舗装されていて淡路のエクボ(凸凹)道ではなかったのが良かったが満員で立ちっぱなし。延々1時間20分やっと洲本に到着した。

洲本の港と街。

2020年7月11日土曜日

14年昔の写真展

2006年は退職した翌年で、仙台でこんなことがありました。
14年前のこの時は自分の趣味生活がスタートした年。
表参道で軽便鉄道写真展を開催し、その後仙台でも開催しました。
まだブログもFBもやっていなかった頃。

2006年7月



金融機関の2階に画廊がある。

2020年7月5日日曜日

流山の「万上みりん」

先日の流山駅の貨物線で、当時の貨物線(野田醤油工場)で運んでいたのは醤油ではなく「万上みりん」の製品や原材料等だったようだ。流山の工場は当時野田醤油(株)で今はキッコーマンのグループ会社流山キッコーマン(株)になって「万上みりん」を作り続けている。
(流山の街に詳しいレイさんの情報より)

キッコーマン醤油(販売者:キッコーマン食品(株))
と「万上みりん」(製造者:流山キッコーマン(株))
マンジョウ 本みりんのラベル、中々よいデザインですね。