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高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2019年5月10日金曜日

西武山口線の軽便最盛期

西武山口線で最も軽便の雰囲気を楽しめたのはこの2両のコッペルと井笠の木造客車が揃った時期ではないでしょうか。木造客車は最後まで走ったがこの2両のコッペルは頸城鉄道と井笠鉄道に戻ってしまった。画像は大サイズにした再掲です。

1972(昭47)年06月03日 頸城鉄道2号機「謙信号」の運行開始しその後井笠鉄道1号機も入線
1973(昭48)年07月05日 井笠鉄道からの木造客車が配属開始
1977(昭52)年09月23日 頸城と井笠の蒸機に代え元台湾糖業公司の蒸機5型2両の運行開始

軽便最盛期の時期とは1973(昭48)年7月~1977(昭52)年9月の約4年間ということに。

入線2年後の井笠鉄道1号機 西武遊園地 1975.06.01

 ユネスコ村  
井笠1号機が牽く井笠のダブルルーフ木造客車は夢のような列車だった.
軽便蒸機列車は子供達にどんな思い出を残したのでしょうか.

井笠鉄道1号機

頸城鉄道2号機と井笠鉄道1号機の列車交換

頸城鉄道2号機

朝顔カプラーの連結作業

5 件のコメント:

なと。 さんのコメント...

確かに頸城と井笠のコッペルが揃っていた時が一番楽しかったですね。
写真でしか見られない軽便蒸機の生きた姿を見られたのは、当時中学生だった自分には貴重な体験だったかも。
あの機関車にあの客車。
やっぱり美しい組み合わせと言うか、素敵でした。

ちゃんとした写真を残せなかったのが心残り。

katsu さんのコメント...

なとさん
あの時代にこんな軽便が煙吐いているのを東京近郊で撮れるなんて信じられないこと。
と言ってもあの時はそんなことに気付かず私は最近になってその美しいシルエットを見て見直しました。
蒸機運転が1972年から12年間も長きにわたり運転されたのでいつでも撮れると思っていたのですが、
その間にコッペルが入れ替わりこの貴重な蒸機+客車は4年間だけだったのですね。
この4年間で私は1回しか撮っていませんでした。

Yuutarounakao さんのコメント...

いつも素晴らしい写真有難うございます。懐かしい山口線、中坊の1973年10月、TMSダックスストーリーに感化され撮影に。あまり実写写真、乗るの興味なかった自分が行った数少ない鉄道です。学校のマラソン大会で走る場所なのでなれた場所でした。ちょうど井笠コッペルがはいり運用前の試験をやっていました。学校の友人と写しに行き8mmも写しましたが操作を失敗し動画は残っていません。再訪を予定しずるずる行かずに敗戦となってしまいました。 NakaoYuutarou

katsu さんのコメント...

NakaoYuutarouさん
山口線がマラソン大会のコースだったとは日々の生活の中で見れたわけですね。
私もその一人ですが、いつでも行ける撮れるという安心感で意外と撮っていない人は多いようです。
たかが遊園地の汽車じゃないか、という意識が私にもあってこれも悪さをしました。
ところが軽便蒸機と木造客車そして軌道施設などすべてが本物の地方私鉄でした。

本物の軽便の魅力を感じた人はきっと遊園地イメージも気にせず撮影に通ったことでしょう。
この数年前に一日だけ走る尾小屋5号機を撮りに北陸へ行ったことがありましたが、
それと比べると山口線の本物軽便は4年間も走っていてファンにとってはこの上ない贅沢だったのですね。

YuutarouNakao さんのコメント...

早速の返信ありがとうございます。ほんと、身近ないつも見られて撮影できるもの撮影しなかったです。地元、京王井の頭線グリーンカー、渋谷の玉電駅、銀座線1000系、親戚の住む浦和での東北線EF57,53三枚窓70系そしてD51.山口線もユネスコ村手前の竹林、鉄橋でもう一度見たかったです。