あの京急デハ230形の3連を昭和38年に杉田で撮っていたのを思い出しました。
デハ230にクハ140を組み込んだツートンカラー(赤と黄)の疾走に憧れたのはこの写真の10年以上昔の幼児の頃でした。横須賀の親戚の家に泊まり高台から何回も眺めたその疾走は、O番模型で合葉兄弟のDC2線式レールの電車がぶっ飛ばす光景の思い出と重なります。しかしこの写真を撮った昭和38年は既に憧れは軽便に移りデハ230形に憧れたことなどすっかり忘れていた時でした。
デハ230形 杉田 1963.05.03
デハ230形 1963.05.03
コクリコ坂の舞台と同じ東京オリンピック前年昭和38年の横浜.
昭和38年 杉田の民家 1963.05.03
以下は先日の川崎市電でアップした田辺さん撮影の大師線デハ230形
デハ230形の更新前後の比較. 京急川崎 1963.12.12
子供の頃に憧れたのは右側更新前のツートンカラー(赤と黄)の230形であった.
デハ277
デハ268 関水金属に保存されている268はこの姿ではない.
6 件のコメント:
230!やはりすばらしい電車ですね。戦前製にしてこの大窓、未更新車の大師線正月臨時直通急行(通称だるま急行)の運転席脇のシートで、地上時代の高速走行に手に汗握ったのは今でも憶えています。
杉田界隈のお写真は、まさに「コクリコ坂から」の1シーンのようです~あの映画には国電と横浜市電しか出てきませんでしたが・・・。
Cedarさん
私はあの電車の素晴らしさをすっかり忘れていたのですが、
先日の大師線の3連の写真で子供の頃に京急にあこがれた事を思い出しました。
先輩諸氏が憧れの急行時代を写真に納めていますが私には手の届かない世界でした。
昭和38年に撮った各停230はとっくに一線を退いていた時代だったのでしょう。
写真で電車の特等席に顔が見えますが子供の頃は皆こんなだったのでしょう。
まだ、大人達は「省線」と読んでいた「国電」(これも死語ですね)の
カリントウ電車と比較して、貴写真の3連編成はカラフルで好きでした。
運転席隣の特等席に張り付いた事を思い出します。でも真ん中のクハの
むき出しの運転席を見るのも楽しみでした。230型の側窓が大きくて、
背もたれが低く、開いていると外に飛び出しそうな不安な気持ちでした。
lodgershinmeishrineさん
運転席隣の特等席、クハのむき出し運転席、低い背もたれ、
どれもこれも羨ましい体験で、何にも代えがたい貴重な思い出ですね。
私はこの230形のカラフルなツートンカラーを夏休みの絵日記に描いた記憶があります。
鉄道模型趣味誌でよく見た京急をモチーフにした合葉兄弟の0番模型は更に窓が大きかったような気がします。
運転会での走りっぷりが230形の如く豪快でした。
katsuさん、ご無沙汰しております。
父親の厄除け参りに(厄年の本人は行かず) 母の付き添いで川崎大師へ行ったのは40年以上前のこと。
大師線で最後の運用に就いていたデハ230形に乗り、その大窓に感激したのを思い出します。
良く晴れた日で、お日様に照らされた背中がポカポカ暖かかったです。
その後5年位で廃車になったそうで、かろうじて間に合いました。
H.Kumaさん
こんにちは。
大師線の230形に乗られましたか。
この電車にはさぞや強い印象を受けたでしょうね。
私は小学生の時に本線で乗って絵日記につけた記憶しか覚えていません。
230形で電車好きになったファンは多いのではないでしょうか。
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