2012年3月末で廃線となった長野電鉄屋代線。
ペリー艦隊横浜来航時の蒸気車(模型)の絵の元絵(写生画原本)が保管されている松代の真田宝物館を訪問した帰り、今の松代駅に立寄ってみました。
屋代線現役時代の松代駅.松代の町にふさわしい味わい深い駅であった。 2012.03.21
廃線から3年が過ぎた今、松代駅は本屋と3番線ホームが残され、1、2番線島式ホームと構内の線路は消え一面に砂利が敷き詰められていた。廃線後に駅本屋をバスやタクシーの待合室に利用されるのはよくあるが、こうして駅本屋とホームが保存されているのは嬉しいことだ。いかにも地方私鉄らしい木造駅舎をいつまでも保存してもらいたい。2015.08.29
線路や島式ホームがあった構内は一面に砂利が敷いてある。
ここに長野電鉄保存車両を並べるのだろうか。
2015.08.29
8 件のコメント:
用品を除いた状態でそのまま残って
いるのですネ。下から2番目の画像の
押し入れ(書庫)には雑品と共に
昭和30年代からの鉄道公報が有りました。
他に神棚や歴代の社長さんのスローガンが
貼ってありました。話は飛びますが、先に
UPされた越後交通の各駅の駅務室には
田中角栄さんの写真が掲げられていました。
常夜燈さん
押入れ(書庫)にそのようなものが入っていたのですか。
散在していると思われる屋代線の記録や遺品などは駅舎と伴に遺して欲しいものです。
松代の歴史遺産の保存に比べれば、たかだか100年足らずの鉄道記録や遺品でも一民鉄の事
となると難しいのでしょうね。
松代駅、懐かしいです。
大学入学初の鉄研の合宿はこの駅下車の松代荘という国民宿舎でした。
当時、よもやこの線が廃止になろうとは思いもよりませんでした。
chitetsuさん
大学入学初の鉄研合宿が松代とは地私ファンにぴったり、羨ましいですね。
屋代線は古い駅舎が残っているのが素晴らしく私はクジラ電車でも許容範囲でした。
消えて数年、今あのクジラ電車の光景を写真で見ると中々懐かしくてよきものです。
松代から電車が消えてしまうとやはり寂しいものです。
屋代線もうすこし頑張ってほしかった。
私が松代を訪れたのは、昭和53年。上野から直通急行「志賀」で、松代駅に降り立ち、真田記念館など町内を一通り歩いて、投宿したのはchitetsuさんと同じ「松代荘」。今では既にはっきりした印象は残っていないのですが、町外れの木造の宿で、落ち着いた雰囲気だったと記憶しています。
それから31年の月日を経て、松代を再訪したのは6年前の8月末、「新秋の信州」の旅路。馬○高い新幹線を避けて新宿から高速バス、川中島古戦場で降りてガイドのおばさん?の説明に聞き入り、それからバスで千曲川を渡って松代に。31年ぶりの町歩き、残暑厳しい中にも吹き抜ける風の涼しさに「秋はそこまで来ている」と実感したのでした…。感傷に浸っているうち、松代駅前で乗ろうとした長野駅行きのバスにタッチの差で乗り遅れ。31年前とほとんど変わっていないたたずまいの松代駅でふと時刻表を見ると、屋代行きの発車時刻まであと少し、ということでその長電に。元・日比谷線の3000系の2連、冷房もなし。「このままでは先が…」と少し不安になったのでした。それから4年後、屋代線は過去帳入りしたのでした…。
「松代荘」は、今では建て替えられて、豪華温泉ホテルに変身しているようです。
伊豆之国さん
私は松代のことはよく知らず、先日真田宝物館まで歩いてみると歴史遺産のような建物が街中にいろいろ残っていて当時の木造宿松代荘はさぞや素晴らしかったことでしょう。
3年前まで走っていた屋代線、松代の駅と電車をもっと堪能すれば良かった。毎度廃線後に思うことは同じです。走っているときには行かない、廃線になって悔やむの繰り返しです。
そうそう松代駅跡から長野駅までバスが一直線30分でこれでは屋代線も持たなかったですね。
屋代に出て上田乗り換え新幹線では時間かかりそうですね。
長電が長野の地下駅から地下線を延長する形で、松代まで延長する形をとっていたら
残ったかもしれないですが、松代自体が都市化の波に飲み込まれていたかもしれませんね。
松代の駅自体が松代城の城域ということもあり、鉄道痕跡主体というより城郭の再建に
ウエイトが置かれるのではないかとみています。
ねこあたまさん
長野駅から松代までもし電車が走っていた確かに歴史の町松代が都市化するという問題がありますね。
今の状態の方が望ましいということに。松代は実に落ち着いた町に感じられました。
松代の駅の脇がすぐ松代城跡で、松代の何百年の歴史遺産を考えると屋代線の鉄道遺産などはウェイト低くなりそうはその通りと思います。駅構内だった広い更地が手つかずのままになっていたのはその可能性が大ですね。
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