案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2011年10月28日金曜日

駿遠線 手づくりのDB60形機関車

駿遠線の蒙古の戦車については駿遠線の蒙古の戦車でDB601~609を紹介しましたが、転籍してきた606を除き他は自社製で、番号順に徐々にスタイルが仕上がってくるところが面白い。若い番号の無骨な産業用機関車風とは違ってDB607~609あたりは個性的な駿遠スタイルに仕上がってきて中々魅力的です。

中村修氏の「駿遠線物語」に書かれている「袋井工場の野武士たち」によれば、大した設備もない袋井工場では点検・整備や改造だけでなく客車、気動車、機関車の新車の製造まで行われ、DB60形機関車(601、602除く)はあのバラックのような袋井工場で製造されたとは驚きである。

DB60形機関車の製作で用意されたのは蒸機の下周りと自動車用エンジンとミッションのコンポーネントだけで、あとは腕の良い野武士たちで全て製作されたそうである。模型で言えば下回りとモータとギヤを元にあとは全自作ということに。
メーカの量産品ではなく図面も不要で現物合わせで作ってしまった機関車には、メーカ量産品にはないユーザ最適仕様に仕上げられた美しさがある。
図面がなくても現合でカタチは作れるが、動力系と性能や制動能力の安全基準クリアなど基本設計をした設計者がいたのでしょう。

新車の製造までできた袋井工場.  DB608が見える 1967.7.9

DB609 袋井
DB607 袋井

蒸機を流用した下周り.  DB607

DB607のキャブ内部

DB609のキャブ内部

2011年10月26日水曜日

終焉の駿遠線 袋井から新横須賀

全長64.6Kmの巨大軽便 駿遠線は一度や二度の訪問では済まず、5回に亘り部分的に訪問したが全線の乗車は果たせなかった。
1967年7月9日に5回目最後の訪問をした時は部分廃線が始まり、残された袋井~新三俣間も翌月には廃線で、袋井工場も閉鎖直前であった。見納めのこの時は袋井から新横須賀まで往復してみた。
この4年前(1963年)はこの線をDBが牽く列車が盛んに走っていたが、その後は湘南型キハの単調な風景になってしまった。この区間は全線に亘り平坦で平凡な風景であり、やはりDBが牽く列車でないと魅力がない。袋井に最後まで生き残った数両のDBは朝夕にでも走っていたのだろうか。

もう一度、駿遠線の終焉を整理してみると。

1963年4月4日  初めて駿遠線袋井を訪問。
1964年9月26日 大手~新藤枝 堀野新田~新三俣間 廃止 
1967年8月27日 袋井~新三俣廃止間 廃止 袋井工場閉鎖 DB601~609の全廃
1968年8月21日 大井川~堀野新田間 廃止
1970年7月31日 新藤枝~大井川間 廃止

荷物合造客車ハニ1が連結された列車. 新岡崎  1967.7.9
袋井←   新岡崎近く 石津 - 七軒町
袋井←   ダブルルーフ客車がご愛嬌. 新岡崎近く 石津 - 七軒町

田んぼの中の小さな駅 七軒町
袋井にいたデッキ付キハ5+ダブルルーフ客車がやってきた. 七軒町-新横須賀
新横須賀

駿遠線の沿線風景や駅はどこも似たり寄ったりで撮った場所の確定には毎度苦戦するもので、
こんな時に頼りになるが、阿形昭氏の写真集「写真でつづる静岡鉄道駿遠線」静岡新聞社発売元で、
ここに収録された全駅の写真と照合すればまず駅名は大抵確定できる。
今回は新岡崎の前後の撮影位置が確定できず新岡崎近くと表示してあります。

2011年10月25日火曜日

草軽電気鉄道


昨夜、古い写真が入手できたので早速アップして見ました。
九十九里と同様にその最後を見に行くかどうかさんざん迷い、結局行けなかった軽便の一つが草軽電鉄でした。手の出ない遠い昔の軽便とは違い最後の草軽は手の届くところにあったのに・・・。

写真は昭和33年、国鉄軽井沢駅前にある新軽井沢から草津温泉まで営業していた時代である。
この時代は国鉄駅前の新軽井沢には何もなく、1駅先の旧軽井沢に後に軽井沢銀座と呼ばれる中心部があり、この間をモハ100形が区間運転していたそうである。
5両いたモハ100も、この時既に3両が栃尾電鉄に移籍していた。
昭和33年の写真 撮影:実兄
区間運転のモハ100形   新軽井沢-旧軽井沢 1958(S33)年
新軽井沢駅構内のデキ 1958(S33)年
二度上 嬬恋のスイッチバック 1958(S33)年
駅員さんの長靴と学帽風が時代を感じさせてくれる.


栃尾線モハ208(元草軽電鉄モハ103) 上見附  1964.3.22

学校の隅に保存されていたデキ. 中軽井沢 1966.8.19


廃線後の新軽井沢駅  1963.7.21
草軽電鉄の新軽井沢駅がそのままバスターミナルに.1960年4月廃線の3年後で
「電車・バスのりば」の看板が「草軽バスのりば」へ書きかえられていた.

駅はバスの施設となり草軽の貨車の車体が残されていた.

2011年10月23日日曜日

駿遠線 袋井駅の佇まい2

最近、ポップアップのLightbox機能が更に改善されてきました。
ポップアップ(拡大)画像のみがLightbox画面に表示されるようになりスッキリしましたので
今まで控えていたポップアップ(拡大)画像を少しずつ増やしています。
特に表示しませんがマウスのポインターがに変わる画像のみが拡大します。
本ページでは拡大画像のみをLightbox画面にして3枚連続して見ることができます。

DB609  1967.7.9   袋井
DB607
袋井駅


DB607

2011年10月21日金曜日

駿遠線 袋井駅の佇まい1

袋井~新三俣間が廃線される直前の袋井駅は蒙古の戦車DBが居るいつもの光景であった。
袋井線側に残されたカタチ良いDBは最後まで活躍していた。

袋井 1967.7.9    拡大画像

軽便客車と子供達   拡大画像

 

デッキ付のキハ5
 
ハ9

ハ28

袋井を出発するとカーブし袋井工場の脇を通り田んぼの中を一直線に進む.拡大画像

2011年10月19日水曜日

寄居から丹荘へ

上武鉄道へ向かう時に通った寄居と丹荘の風景に戻ってみます。
当時は気にも留めなかった寄居の光景も今みると昭和37年を感じさせる。

東上線のクハ246 寄居 1962.12.23      拡大画像
池袋で乗った寄居行き準急はこんな電車であった。先頭を除く3両の凄い電車がとても気になる。
ホームの看板には東京へ準急98分とある。

いくらでも撮れた八高線のC58の貨物列車. 寄居  拡大画像
  
秩父鉄道の電機ED38 3号機.  寄居   拡大画像

何もない上武鉄道丹荘の駅.ここから西武化学工場前まで走っていた。
ポツンと置かれたハフ2(元川越鉄道の古典客車改造)

2011年10月18日火曜日

上武鉄道 英国系蒸機

英国系の蒸機は1886年製などとんでもなく古い古典機が夕陽を浴びて休み、
格調高い英国紳士を思わせる風貌を北関東の工場内に見ることができた。

1891年英国ダブス社製の8号機(後に3号)  西武化学工場内 1962.12.23

1902年英国ナスミス・ウィルソン社製の6号機

休車の1896年英国ナスミス・ウィルソン社製の5号機

1886年英国ナスミス・ウィルソン社製の4号機

番外は工場の外れに休車になって置いてあった元飯山鉄道の日車製3号機.
同系機が別府鉄道に在籍していた.

2011年10月16日日曜日

上武鉄道 アメリカン蒸機

上武鉄道に居た6両の蒸機を紹介してみます。
まずは再三取上げている1897年ピッツバーグ社製のアメリカン7号機。
こんな古典機が北関東でアメリカン独特の美しい姿で煙を吐いていた。
池袋から東上線で寄居まで行き、八高線で少し先の丹荘で降りると西武化学までたった6.1Kmを走っていた上武鉄道があった。日帰りでこんな古典蒸機が撮れたあの日の事が思い出される。

西武化学前  1962.12.23



東武熊谷線でリンクさせて戴いたlodgershinmeishrineさんのYou-tubeで 寿都鉄道8100形
が素晴らしいです。ボールドウィン蒸機の動きのバックに流れるブルーグラス音楽を聞き
ながら動画を見ているとこれぞアメリカン! 最高です。


2011年10月13日木曜日

お知らせ ポップアップ画像について

9月19日の「ポップアップ画像について」にてポップアップ画像のLightbox機能変更についてお知らせしましたが、その後改善がされました。


拡大不要画像では画像上のマウスポインターが矢印を表示し、
画面は拡大画面に切替りません。


サムネイル画像では画像上のマウスポインターが人差指を表示し、
クリックで画面が切替り画像が拡大します。
元の画面に戻すには×をクリックするか、背景(黒)をクリックして戻して下さい。


2011年10月12日水曜日

東野鉄道 昭和14年に消えた区間(続)

前回の東野鉄道 昭和14年に消えた区間 では箒川を渡ったところで終わっていましたが、今回はその先の終点那須小川までの廃線区間の風景を確認してみました。廃線跡らしきは道路くらいで、今回も廃線の痕跡の探求ではなく、遠い昔にガソリンカーやボールドウィン蒸機が走った風景を確認するのが目的でした。
なす風土資料館史跡マップに、廃線跡を赤ラインで印したもの

この辺で箒川を渡っていた.那須小川側から対岸の相良土方面を見る.2011.10.11

箒川を渡って緩くカーブして廃線跡(道路)は那須小川まで一直線に進む。町には那珂川が流れ、対岸に那珂川沿いに八溝山へ連なる山並みが続く風景は黒羽と同様で、那須降ろしの寒風が吹く季節にはまだ早く心地よい秋の日差しであった。こんな風景の中を遠い昔に東野鉄道が走っていた。
      
Baldwin製1-B-1蒸機  大田原市歴史民俗資料館パンフレットより

キハ10,11

箒川を渡って那須小川まで進む直線区間.写真は那須小川側から黒羽方面を見る.

直線区間が終った先に中学校があり、そこに終点那須小川駅があったらしい.

以下は1939(S14)年6月廃線の前から走っていたガソリンカー3タイプ.
 1930年竣功の元キハ10,11→ハ32,33    1966.12.30


元キハ30→ハ30 1938年常総線から入線


1936年竣功の元キハ20→ハ31