案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2011年12月16日金曜日

庄内交通 元京王の電車

 善法寺の田舎電車 で湯野浜線を取上げましたが、そこで活躍していたのはモハ8(元京王電鉄)や古老モハ7(元京王電気軌道)でした。

モハ8は1963(昭38)年8月の京王線昇圧化600→1500Vを迎え、 最後の活躍をしていたあの京王線中型車2400形。そしてモハ7はずっと古く元京王電気軌道からの移籍してきた。
京王線で5連で突っ走っていた2400形は、湯野浜線へ来てのんびり単行で松林の中を走っていた。
またモハ8+モハ7の元京王同士で手を組んで走ることもあった。
どちらも中小私鉄にほど良い全長で、地方路線によく溶け込んでいた。

撮影 1966.2.28
国鉄鶴岡駅の隅に湯野浜♨温泉ゆきを掲げたホームがあり
ここから湯野浜温泉行きの電車が発着していた. モハ8+モハ7

日本海が近い松林を行くモハ8(元京王デハ2400形2405)


善宝寺駅に到着するモハ7


 善宝寺駅の交換風景。 貨車を牽くデハ101


モハ7


そしてこんな電車も デハ103(元東急デハ3200形)

デハ101  善法寺

2011年12月8日木曜日

弘南鉄道 津軽富士と古豪電車2

津軽富士を望む平賀の車庫に休む車両達.
撮影 1966.3.3
旧富士身延鉄道と旧武蔵野鉄道の車両が休む

平賀の車庫  昭和24年日鉄自動車製 ED301


旧伊那電気鉄道のクハ1271

車庫へ引上げる旧富士身延鉄道の2扉車モハ2250


朝活躍していたモハ2250の編成.  弘前  


旧富士身延鉄道のクハニ1283  平賀


旧武蔵野鉄道のモハ2233  平賀


モハ2232+クハ1267 平賀


西武クハ1151形2両の投入で西武系で揃った編成  平賀

2011年12月6日火曜日

弘南鉄道 津軽富士と古豪電車1

国鉄弘前駅の反対側からは東北の大私鉄 弘南鉄道が発着し、昔の西武色(栗色とクリームの塗り分け)した旧省の4連や旧西武車が次々とやってきた。
この頃は、飯田線を走っていた買収国電の旧富士身延鉄道、旧伊那電気鉄道の車両が主力で活躍していた誠に素晴らしきよき時代であった。西武でよく見掛けた平凡な17m級国電タイプが投入されたのはこの翌年以降であった。
撮影 1966.3.3 平賀駅とその近辺
旧富士身延鉄道が揃った4連.  モハ2252+クハニ1283+モハ2251+クハニ1281 

津軽富士(岩木山)をバックに活躍する旧伊那電気鉄道のクハニ1271形
乗務員扉がない独特のスタイルしたクハニで、旧富士身延モハと組む.

旧富士身延鉄道2→3扉改造後のモハ2250形. 弘前周辺の山並みはまだ白い.

旧武蔵野鉄道 モハ2231形

旧富士身延鉄道の原形を保った2扉クロスシート車 モハ2250


旧西武のクハ1267
所沢工場改装の旧西武クハ1151形2両の投入直後で、ピカピカで見違えるような姿であった.


引用: RMライブラリー弘南鉄道(上)(下) ネコ・パブリッシング発行

2011年12月4日日曜日

弘前電鉄 弘前の裏町

弘前を訪れたのは1966年3月、まだ残雪がある初春であった。
弘前には弘前電鉄(中央弘前-大鰐)と弘南鉄道(弘前-弘南黒石)と二つの私鉄路線があったが、
この数年後の1970年、弘前電鉄は弘南鉄道に吸収され現在の弘南鉄道大鰐線となった。

弘前電鉄の始発駅中央弘前駅は国鉄弘前駅から離れた弘前城が近い裏町の一角にあり、
土淵川に沿った小さな駅から大鰐行きの渋い電車が出ていた。
現在大鰐線として車両が近代化されても、この川沿いを走る裏町風景は変わらないのだろう。

撮影1966.3.3
川沿いにある小さな始発駅中央弘前 モハ100形  ↘行止まり
秩父鉄道から譲り受けたモハ100形、2両が暫く原形の色(グリーン)のまま使用された。
ホームの屋根の下にぶら下がった看板を見ると
ビヤレストラン富田直営
肉の折詰,盛皿,ハムソーセージ 肉の富田〒 とある.

中央弘前を出た木造車は土淵川沿いに裏町を走り県立弘前高等学校の前でカーブする.
元国鉄のクハニ200形は最後まで木造のまま使われた.    弘高下


中央弘前から二つ目に西弘前(現弘前学院前)がある. 赤い木造車クハニ200形

西弘前の駅に降り立つと貨物駅の倉庫に積まれたリンゴの臭いが漂っていた.
車庫があったが現在の地図を見ると消えている.
反対側の貨物駅だった側線1本は今も残っているようだ.
中央弘前行きの電車.  西弘前   
モハ105 唯一新型に見えたが元秩父鉄道木造車の車体更新であった.


クハニ200形202


グリーン色したモハ100形が赤い木造車を牽く.   西弘前


元秩父鉄道木造車で簡易鋼体化改造車.色は真っ赤であった. モハ103


西弘前の車庫  元秩父鉄道木造車モハ102と モハ101車体鋼体化後


引用: RMライブラリー弘南鉄道(上)(下) ネコ・パブリッシング発行

2011年11月30日水曜日

会津線 会津田島

会津線の貨物営業は1982年に廃止となった。
当時の貨物列車の荷を見ると木材をけっこう運搬していたようで、会津田島の駅の周辺には木材が積み上げられていた。C11が休む山間の長閑な光景はいかにも国鉄ローカル線の風景であった。 あれから40年、会津鉄道に変身した現在の会津田島からは遠い昔に見た風景が全く結びつかなかった。

現在の会津田島駅  2011.11.22
駅に降りた瞬間、これが会津田島なの? 昔の長閑な光景は何もなかった.

会津田島  更に会津滝野原(現会津高原)まで線路が延びる.  1971.10.3

いつもC11が数量煙を上げていた小さな会津田島機関支区

駅の周辺に積まれた木材
会津田島駅

2011年11月23日水曜日

会津線 湯野上温泉~会津田島の車窓

浅草発8:10の東武快速新藤原行きに乗り新藤原、会津田島で乗り継ぎ、湯野上温泉に着いたのが12:20と約4時間ほどであった。遠い昔、車で鬼怒川から山王峠を越えよくこの沿線を走りC11を撮ったものだが、一体どの辺りで撮ったのか今回初めて会津線に乗って車窓から沿線を眺めたのでした。

過去何回もやって来てさんざん見なれた筈の会津線の景色だが、車窓に見える遠景の山並みが冠雪で気味悪いくらいの美しさには驚いた! こんな風景見た事ない。昔から変わらず筈もない山並みの景色、これに気付かなかったのは遠景の山並みが冠雪するシーズンに来たことがなかったためだろう。そして線路ばかり見ての車運転で全体が見えなかったものかもしれない。

最も分からなかった沿線は湯野上を出た会津若松方面へ向かったSL撮影名所だが、そこは大川ダム建設で会津線ルートと駅名も大きく変わってしまったことを思い出し確認するのは諦めた。
湯野上温泉~会津田島間でも厄介なのは駅名が全く変わってしまったのが4駅もあることで、昔のままの駅名は弥五島、会津長野、会津田島くらいしかない。

会津下郷から会津田島へ向かう車窓3景
会津下郷-ふるさと公園    2011.11.22

会津下郷-ふるさと公園  

会津長野- 田島高校前
上の3景は会津下野郷から田島高校前にかけて車窓に見えた美しい山並み.
正確には判らないが栃木県境の甲子山~朝日岳にかけての連峰と思われる.

野岩鉄道と会津鉄道が接続する会津田島駅

2011年11月15日火曜日

朝の仙台市電

仙台と云えば仙台市電が思い出される。
上野から夜行車中泊で朝を迎える仙台は東京から丁度よい距離で、朝から効率よく動くことができた。
夜行列車で到着する早朝の地方都市と云えば、ひと気のないうす暗い駅前に路面電車が走っている風景が定番であった。
前夜20時50分に上野を出発した青森行き鈍行列車は仙台に30分遅れで5時半頃に到着。
大都会仙台も早朝の駅前は人もまばらで通勤・通学時間前のひっそりとした風景であった。
昭和38年9月の仙台行きは市電と仙台機関区を同時進行で撮り、朝暗い内から仙台の街を駆け巡った。
あの時の風景の今をGoogleストリートビューで覗いてみるとその変貌ぶりに驚くばかりである。

全点ポップアップ拡大画像になります。   撮影日 1963.9.29
日が昇る前の朝の仙台駅前
様々な看板がいかにも地方都市らしい駅前
大都会仙台の駅前もこんな風景であった. 駅前の丸光百貨店が増改築中
仙台駅前の停留場
仙塩街道を行く10系統原町行. 花京院-小田原一丁目
花京院を出るとさんさんと差す朝日を浴び東北本線を越える.橋の碑は今もそのまま残る.
現在はこの上に新幹線高架ができうす暗い光景に一変した。
仙塩街道を行く10系統原町行. 花京院-小田原一丁目
東北線を越えると左にカーブする.
仙塩街道を行く9系統原町行
 花京院.  9系統 大学病院前行き
花京院の交差点

2011年11月13日日曜日

仙台鉄道 加美中新田の風景

1960(昭35)年5月に全線廃止となった仙台鉄道。ここも見る事が出来なかった遠い昔の軽便鉄道の一つです。加美中新田の風景の写真4点は学生時代に鉄研の先輩から頂戴したもので、撮影者の了解を得てアップします。
仙台鉄道は北仙台~西古川間44kmの長大な軽便であったが昭和26年にその殆どが廃線となり、昭和35年まで加美中新田~西古川間3.4kmが残されていた。写真の加美中新田の風景は廃線間際と思われます。 減速進行さんの仙台鉄道路線図でいかに長大路線であったかがよく分かります。

                               撮影: 法政大学鉄研OB竹下氏

DB701とキハ3  加美中新田  昭和35年頃


キハ3 昭和3年丸山車両製の木造客車を、
戦後 協三工業にて気動車に改造され最後まで活躍した.
キハ3 片側がバケットで反対側はデッキのみ.
アーチバー風の台車を履いた元客車キハは、頚城の元客車ホジと同様.


キハ4 昭和15年丸山車両製作所製

以下は仙北鉄道DB071で、仙台鉄道DB701と製造メーカ、自重が同じで製造時期が1年違い。
外観は全く同一で両者は兄弟機なのだろう。

仙北鉄道DB071  瀬峰  1964.8.4 


仙北鉄道 DB071 車両竣功図  動輪径730Φ
協三工業 昭和26年8月製造 自重7トン

北仙台行きの仙台市電. 東京オリンピック直前の1964年夏の丸光百貨店前. 1964.8.8 
ずっと昔、仙台鉄道は市電の北仙台から出ていた.