案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2018年8月5日日曜日

団塊世代の青春時代

私が会社に入ってその4年後にどっと入社してきた世代が団塊世代社員のスタートでした。
私が盛んに地方私鉄めぐりをやっていた大学2~3年の頃、地方私鉄の通学時間は高校生で大盛況でした。日本の子供たちがピークで日本が最も活気ある時代であった。

最近、気づいたのですが、私の4学年下とは私が私鉄めぐりを盛んにやっている頃に団塊世代は高校生だったのですね。だから駅や列車は溢れんんばかりの高校生で大盛況だった。朝の東和歌山の高校生達も団塊世代だったのですね。
もうこんな時代は来ないでしょう。

朝の東和歌山駅前。1964.7.10
小さな電車に乗り切れないくらい高校生が溢れていた。


6 件のコメント:

Cedar さんのコメント...

またまた素敵な写真です。Cedarの記憶としては、春休みに東北の列車に乗っていて、集団就職の見送り風景に遭遇したことですね。高度成長末期の光景だったのでしょうね。

ねこあたま さんのコメント...

公共交通の衰退と犯罪によるものか、あるいは少子化によって、高校の周りの朝夕は送迎の車があふれてますがな。

katsu さんのコメント...

Cedarさん
そんなことがありましたか。
私は集団就職の列車風景は全く記憶がありません。
きっと目が向かなかったせいなのでしょう。
この時代の上野駅に展開する様々な光景に目が向かなかった悲劇を
今でも悔やんでいます。

katsu さんのコメント...

ねこあたまさん
地方の通学風景も全く様変わりしたのですね。
今もある東京の電車通学では昔のような高校生の集団は見掛けなくなりました。

天ワカ さんのコメント...

いつも美しくそして懐かしさを感じさせる写真、楽しみしています。
当時東和歌山駅は戦前の阪和電鉄の趣きを残す終端部のある阪和線のホームと南紀方面へそのまま延びている紀勢本線のホームが別にありました。前の東京オリンピックのあった写真の撮影されたこの頃から東和歌山駅周辺も開発が進み、数年後には民衆駅とよばれる新しい駅ビルが建てられ、和歌山駅に改称。そしてさらにその数年後には写真に写っているいわゆる市電も廃止。東京オリンピックから大阪万博へと日本が高度成長に向かうとともに路面電車が廃止に追い込まれていく時代でもありました。

katsu さんのコメント...

天ワカさん
コメントありがとうございます。
当時の東和歌山駅は興味深い駅でした。
私は駅前の風景に戦後のような雰囲気を感じました。
写真を撮る角度によって様々変化する駅前の雰囲気が不思議に思えました。
その後、貴志川線、和歌山軌道線など東和歌山駅の楽しさが一気に消滅してしまった感があります。
阪和線や紀伊本線のホームもあの時代感が満ち溢れていたことでしょう。