案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2018年8月14日火曜日

昭和37~41年 小田急

 昭和30年代に独特の景観があった国分寺崖線。 成城の国分寺崖線を下ったところに野川がが流れ、一面ブッシュが生い茂る平地に今は小田急喜多見検車区の施設が建つ。この当時の面影残すのは成城に向かう不動坂にある喜多見不動堂くらいか。

成城から下ったところに曲がりくねって野川が流れ、鉄橋をくぐった先に水車小屋があった。
 成城-喜多見  1964.2.25

喜多見から成城へ向かって勾配を上る。 1964.2.25

現在の風景からは想像もできない一面ブッシュが生い茂る風景。NSEは1963年春にデビューした。   成城-喜多見 1964年2月


喜多見の野菜畑の向こうに成城の国分寺崖線の木立が続く。喜多見  1962年12月

デビューして9年のSE車が成城の坂を上る。 1966.4.11

美しかったセミクロスシートの2320形。  喜多見  1962年秋


ロマンスカーの面影残す1700形が喜多見の野菜畑を行く。1962年秋

 喜多見駅。1966.4.11

社紋が入った三角屋根の喜多見駅。1966.4.11

今は地下駅となった成城学園前駅。1964.2.11

4 件のコメント:

狂電関人 さんのコメント...

katsuさま

なんとも言えない昭和の私鉄沿線原風景ですね。
原型SEは、子供ながらに未来的スタイルがインパクト大でした。
最後の食パンは1800でしたっけ?秩父に居たのを見た記憶があります。

katsu さんのコメント...

狂電関人さん
あの辺りの小田急沿線はのどかな風景でした。
SEが登場した時は私も衝撃を受けました。
この写真の頃はNSEがデビューしていたのですね。
小田急の特急に関心を持ったのはこのSEまでです。
1800には随分お世話になりました。

風旅記 さんのコメント...

こんばんは。
今日も貴重なお写真を楽しく、興味深く拝見させて頂きました。ありがとうございます。
小田急線の世田谷区内や近隣は土地勘があるのですが、沿線の風景が、どうしても私が知っている世界と繋がりません。今では想像もつかないですね。沿線もそうですし、複々線化が完成した今、小田急線自体も変わりました。
そして、お写真を通じ、小田急はチャレンジングな会社なのだと感じました。昭和39年に既にロマンスカーが走っていたとは、改めて気付き驚きました。今も脈々と続くロマンスカーの歴史、こんなにも沿線が変化する程の長い時間なのですね。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/

katsu さんのコメント...

風旅記さん
こんにちは。
小田急のロマンスカーは写真のNSEやSEの登場以前に1700系があり、その更に昔の1900系2扉車が特急の初代でした。
1900系の中で2扉車クロスシート車2編成が2000系に改番され、小田急ツートンカラーに塗られ特急用に昭和27年まで活躍しました。このインパクトが強過ぎて私はその後のロマンスカーに関心が薄れて行きました。
戦後まもなく特急専用車を用意した小田急の特急は長い歴史だと思います。
小田急と沿線風景の激しい変貌ぶりは確かに先進的な会社のせいかもしれませんね。