案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2018年5月29日火曜日

浅野川線と金沢風景2 粟ヶ崎

浅野川から離れて大野川を渡ると粟ヶ崎に到着する。有名な撮影ポイントで沢山の元井の頭線電車の写真が撮られている。注目は背景にありで今やすっかり変わってしまった。

撮影:1964.12.31
浅野川線と言えば誰もが撮る大野川の橋梁。橋の向こう側に見える川べりの風景はこの時代特有の風景であった。粟ヶ崎ー蚊爪

川の向こうに一面の田んぼが拡がる。粟ヶ崎ー蚊爪

 粟ヶ崎の駅前
朝の通勤客と思ったがこの日は大晦日。電車から降りる人、駅に向かう人々を後に電車は内灘へ向かう。


ここは終点内灘。キンチョールの看板が目に入る。

14 件のコメント:

esehoku さんのコメント...

浅野川線 連続第3弾ですね。
3571と組んでいるのは1601ですか。
この頃に既に元遠鉄コンビはあったんですね。
加南線時代に、クハ1602が3501と凸凹コンビ、3571はなぜか晩年まで1603とは組まず、なぜか単行で使われる事が多かったようです。
客用扉の窓桟が十字で、ガラスが4分割されているのが特徴でした。(子供心に、なんか「変わっている」と喜んだ覚えがありますが、くたに/しらさぎに見劣りはしましたね。ロングシートでしたし…。)
戦時中の名残りなのでしょうか? ガラスは高価だったので、割れても1枚あたりが安く交換できるためと聞いた事があります。

画像のラストは、まだ粟ヶ崎海岸まで路線が延びていた時代ですが…北鉄の謎めいた部分の一つで、今、痕跡を辿ろうとしても全然わからないです。(内灘の駅名板には「かいがんえき」と書かれていて、当時の北鉄はなんかテキトーだなぁと思います。加南線の新塚谷も「しんつかたに」となっていたり「つかたに」となっていたり…)
内灘の先からどうやって延びていたのでしょうか?
石川総線 白菊町〜野町、連絡線 宇和野〜栄谷間と並ぶ「3大謎区間」と勝手に呼んでいます(笑)。

黒ユリ さんのコメント...

懐かしい写真を堪能させて頂きました。
最初の写真に、「ボート乗り場」と書いてありますが、兄が学生の頃、友達と一緒に、大野川でボートに乗ったと言っていました。川べりは今でもあんな感じですよ。
内灘闘争のあった土地ですが、昔から内灘は「陸の孤島」と呼ばれ、市内とは打って変わってド田舎でした。砂丘の地にはニセアカシアの並木、その農道を通り、養鶏場のそばを通って学校に行きました。
金沢市内の高校に通う時は、毎日電車が、あの大野川を通る時、「落ちないかな」と不安でした。浜辺までは遠いので、電車が浜まで通っていたらなあ、と思ったものです。
皆さんと違って電車の知識は全くない私ですが、貴重な写真をありがとうございました。

katsu さんのコメント...

esehokuさん
訪問時は内灘~粟ヶ崎海岸は休止中で線路は残っていて1974年に廃止されたようです。
鉄ピク216号私鉄車両めぐりに紹介されたようで、海水浴場までの経路が記録されています。
現在の地図に照合してみるとなんとなく軌道跡が推定できます。
何とGoogle地図に粟ヶ崎海岸駅跡が表示されていました。
そこは海が目の前、小さな電車が内灘の海水浴場まで通っていたのですね。
10年程前、この内灘の海岸を確認に行ったら海岸道路で実に殺風景なところでした。

katsu さんのコメント...

10年程前に訪れた内灘の海岸が殺風景だったのは、
ここにあった試射場の面影を残していたせいでしたか。
浅野川線も内灘闘争で大変な時代があった訳ですね。
内灘闘争以前は、内灘から粟ヶ崎海岸までのどかな海水浴行き電車の風景が見られたことでしょう。
前にその時代のことをコメント入れてくれた方がいました。
アメリカ軍撤収と、この内灘~粟ヶ崎海岸の休止が1957年で一致しています。

狂電関人 さんのコメント...

katsuさま

こんにちは!
本日、ようやく書泉グランデにて上梓刊を購入させていただきました!
もうイチページイチページ捲るたびに熱いものがこみ上げてきてたまりません(笑)

katsu さんのコメント...

狂電関人さん
ご購入ありがとうございます。
そう言っていただくと、
苦労した甲斐があり嬉しいです。

代打・山本 さんのコメント...

米軍が昭和21年に撮影した航空写真に粟崎海岸までの線路が写っています。
画面右端のちょうど真ん中あたり、森の中に白く写っているのが粟崎遊園駅の駅舎で、そこから右にカーブして海に向かい、砂丘を横切って再び右にカーブ、波打ち際に地面が窪んだようになっている部分が海岸駅のホームと機回し線です。完全に砂に埋もれていますが、運転再開の前には人海戦術で線路を掘り出していたそうです。
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1190123&isDetail=true
(画面を拡大してご覧下さい)

katsu さんのコメント...

代打・山本さん
いつも貴重な情報ありがとうございます。
粟崎海岸駅からさらに右に海水浴場まで延びていた?

機廻し線がある粟崎海岸駅の写真がネットにありました。
内灘から海岸までの線に関して情報を時系列に並べるてみると、
諸説があり、これは単純ではなさそうですね。

この区間の経緯は米軍試射場との関係が大いにありそうな気がします。
真相はまずは信頼ができる歴史的情報元を見つけることからだと思っています。

代打・山本 さんのコメント...

内灘~粟崎海岸の歴史は下記のようになります。

昭和4年7月14日 新須崎~粟崎海岸間開業
昭和20年2月11日 粟崎遊園前~粟崎海岸間廃止
昭和20年10月1日 北陸鉄道に合併
昭和25年7月1日 粟崎遊園前~粟ヶ崎海岸間開業認可
昭和49年6月29日 内灘~粟ヶ崎海岸間廃止許可

昭和20年2月に廃止手続きが取られた後も線路や電路はそのまま残され、合併後には市内線と線路を接続して撒水車を海岸へ乗り入れて海水を汲み、塩の代用として販売したというエピソードがあります。

航空写真に写っているのは初代の海岸駅ですが、画像検索でよく出てくるのは昭和25年に新設された二代目で、二回目のカーブで海岸へ降りずに築堤の上に設置されました。

粟崎遊園前は今の内灘で、「前」がつかない粟崎遊園と隣接していたので紛らわしいです。

これも米軍撮影の航空写真で、海岸駅が移設された後の昭和27年の撮影です。
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1188558&isDetail=true

katsu さんのコメント...

代打・山本さん
歴史を記載いただきありがとうございます。
この区間の歴史がいろいろと説があるのですが、この出典元は何からでしょうか。

代打・山本 さんのコメント...

廃止、開業に関しては、国立公文書館に保管されている許認可文書からです。
年に何度も行けませんが、北陸鉄道に関係した文書は10年以上かけて全部閲覧しました。

katsu さんのコメント...

代打・山本さん
ありがとうございました。
出典元がそういうことでしたか、安心しました。
またいろいろと宜しくお願い致します。

代打・山本 さんのコメント...

ウィキペディアの浅野川線の歴史の記事は疑問を抱かざるを得ないものばかりで、特に軍による接収・返還、砂丘に向けた延伸、海岸線の最終営業日に関する記述は全て誤りです。
推測だけを頼りに執筆するのは簡単かもしれませんが、誤った記述が独り歩きすると、数十年後にはあたかも事実であったように語られることにもなりかねません。
そんなことにならないように、正しい歴史を後世に伝えることが地元の愛好者としての責務であると考えています。

katsu さんのコメント...

代打・山本さん
全くその通りと思います。
ウィキペディアは出典元としては使えない、
は鉄道記事を書くうえで誰もが思っていると思います。
しかしネットでは平気で引用していることが多いのも事実と思います。
今日は昭和20年代末頃に現地メーカに入社した古老に砲弾輸送と内灘闘争について聞いてきました。