案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2017年3月28日火曜日

広島市内線 単車が走っていた街

150形、400形、450形の単車が活躍していた頃の広島の風景はこんなであった。

軌道線と鉄道線の接点 己斐(西広島)駅.1967.3.7

己斐(西広島)駅の400形404.中桟が入った側面窓のガラス.

己斐(西広島)駅ではこんなボギー車もいました.750形(元大阪市電)

己斐(西広島)駅の単車の先にあったのが鉄道線風景.かって単車450形も鉄道線に乗り入れたこともあったそうだ.

素晴らしき鉄道線の電車.

己斐から広島駅へ向かう400形

 土橋で分岐し己斐へ向かう400形、左に直進するとあの「江波」に向かう.  

単車で賑わう十日市分岐点の450形.

甲斐発宇品行きの400形、直進すると相生橋を渡る. 十日市町電停

4 件のコメント:

Cedar さんのコメント...

西広島と己斐が同じ駅と現地に行って初めて知りました。
市内線電車が乗り入れるのではなく鉄道線電車が中心に乗り入れたら・・とインタアーバン好きは思ったものでした。

katsu さんのコメント...

Cedarさん
ということは福武線のイメージが目に浮かびます。
いいですね、広島のメイン道路を鉄道線の高床式がゴロゴロ走る光景。
広電の繁栄は路面電車と鉄道線の線路が繋がっていたことにあるのでしょう。

まろねふ さんのコメント...

大変ご無沙汰をしております。
久々の広電関係の記事に、興奮させて頂きました!

katsuさまがお越しになられた昭和42年頃は、広電の輸送人員が最も多かった頃で、現在の倍近くの輸送人員であったと記憶します。今から見ると小さな四輪単車達ででよく運べたと思います。私が現役の頃、当時の大先輩から聞いたのは当時は交通信号機が少なく、その分所要時分が短く効率よく輸送出来たとか… 

軌道線の単車が宮島線に乗り入れたかどうか分かりませんが、現在の草津南駅が中央魚市場前駅といわれた頃、当時の魚市場から鮮魚を積んだ単車の貨物車が、商店街(元の愛友市場かな?)のある猿猴橋町まで運行され、仲買人輸送の電車も早朝に走っていたと聞いたことがあります。この当時の側線跡が現在も残っています。

1枚目の己斐停留場後ろのビル(広電会館といいます)は現在も当時の姿で残っていますが、耐震問題でマスコミにも取り上げられた事もあり、近々消える運命にあります。

思いついたことを長々と書かせて頂き、失礼いたしました。

katsu さんのコメント...

まろねふ さん
ご無沙汰しております。
以前、広電の遠洋航海や路線番号表示の替え忘れ等、楽しいお話をコメント戴きありがとうございました。
この写真の昭和42年は朝夕のラッシュ時に小さな単車も総動員してフル稼働していた感じでした。
広島に限らずどこでも朝が絶好の撮影チャンスで朝食など忘れてしまい夢中になったものです。
全国で路面電車が消えようとしていた時代に広電では現在の倍近くの輸送人員でしたか。
大変に活気ある時代だったのですね。
魚市場から鮮魚を運んでいた貨物車は興味津々、見てみたかったですね。