案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2017年3月3日金曜日

旧東海道を行く木造ポール電車2 リニューアル

廃線前の昭和36年に台風で黄瀨川に架かる橋が流出し、三島広小路から沼津行きは国立病院前で折り返し運転となり、その先の国立病院前~沼津間は代行バスを運転していた。川向うの沼津側に残された3両は廃車になり、最終日まで残ったのは7両(内1両休車)であった。

ED11(元国鉄アプト式電機ED40形)の背後に見える軌道線の車両.大場工場

鉄道線の大場工場に集結した軌道線の車両.1963.2.22
最終日まで残った7両がそのまま留置されていた.

廃線記念にオープンデッキの花電車3号に改造されたモハ202.
201と202の西武時代はこんなオープンデッキで伊豆箱根転入時にドアをつけた.
モハ202

モハ201.202と伴に西武から昭25年譲受、枝光ペックハム系台車が美しい.

モハ201の車内

モハ15(元大雄山線)車中から見た隣の運転台が異様に低いモハ206頭部.

最後まで残った小ぶりで頭が下がった最も魅力的な電車モハ206   5か月後1963年7月

以下は大場工場風景
モハ45さてこの車両は何か? 
昭和29年に国鉄から譲受けた電車で、伊那電気鉄道買収のデ200が前身である.大雄山線モハ45で活躍していたが昭和34年に西武から来た車体に乗せ換えた.写真↑はモハ45鋼体化で不要になった廃車体.(鉄道ピクトリアル私鉄車両めぐり第6分冊より)
大雄山線の鋼体化後モハ45  1963.2.22

大雄山線の木造車クハ20形の23.同型の木造車22と24が大雄山線で活躍していた.



鉄道線大場工場の中では西武へ発注したモハ1000系の自社艤装中であった.
昭和38、39年に2編成6両が導入された.車内のクロスシートが見える.

4 件のコメント:

Cedar さんのコメント...

最後から2枚目の大場の電車たちにジ~ンときました。手前のオープンデッキは廃止記念に復元(?)したものでしょうか?
左端の電車は旧大雄山線のものでしたね。

katsu さんのコメント...

Cedarさん
その通りです。
オープンデッキの電車は廃線記念に簡易に復元されたものです。左端もその通りで大雄山から来た電車です。これら7両の電車を間もなくアップします。元西武新宿線(都電杉並線)が多いんですよ。

匿名 さんのコメント...

このたびのリニューアル・シリーズのご掲載、誠にありがとうございました。おかげさまで、瞼の奥の光景が蘇りました。この軌道線との出会いは、今思えば傑作でした。すなわちかつての幼少時、叔母に連れられて沼津に行った際、駅前広場の片隅に、掘立小屋のようなものがありました。ガラス窓もあり、てっきり物置小屋だと思いました。ところがしばらくして気付くと、その物置小屋が消えていたのです。そこで初めて、軌道線の存在に気が付いた次第です。おそらくは切妻型の木造電車を、子供心に物置小屋だと思い込んだのでしょう。
次に沼津に行った際、電車は走っていませんでした。線路も架線もありましたが、電車は来なかったのです。先日の台風による洪水で、途中の橋梁が流されたという事でした。その線路の上を歩いてみると、自分が電車になったような気がしました。このままどこまでも歩いて行きたかったのですが、父に連れ戻されました。
最後ともなったのは、国立東静病院に親戚の見舞いに連れられた際、バスの中から見た線路の撤去でした。バスがその工事現場をよけて、狭い道をクネクネ走っていたのが印象的でした。この軌道線の最後の日は、地元新聞にも取り上げられました。それによると、電車1両を昔のオープンデッキ式に改造して、さよなら運転に使用したそうです。私たちの目から姿を消した軌道線の車両たちは、広い大場工場の片隅で解体されたのですね。
ここにこのたびのリニューアルを重ねまして感謝、御礼致しますと共に、今後ますますのご活躍をお祈り申し上げます。どうかこれからも、素晴らしい数々の光景のリニューアルを、何とぞよろしくお願い致します。

katsu さんのコメント...

匿名さん
コメントありがとうこざいました。
幼少時に見られた軌道線の印象がちょうど私がみた軌道線廃止直後と重なります。
私は川向うの沼津まで軌道線跡を歩いた気がするのですが何故か写真がありませんでした。
沼津駅前にあった掘立小屋のような駅や軌道跡をスケッチしたメモを探してみようと思います。
切妻型のごつい木造電車は沼津三島軌道線を象徴するような電車で次のリニューアルで再度紹介したいと思います。