案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2015年10月14日水曜日

昭和38年 何だこれは! の金沢3

撮影:1963.07.12  田辺多知夫

急行「ゆのくに」交直流電車471系 金沢 1963.07.12
この写真の数ヶ月前1963年4月20日に福井から金沢まで交流電化され、金沢駅は赤い新型電車の急行「ゆのくに」や「加賀」などで賑わっていました。北陸本線も交流電化で様々な入れ替えがあった時代だったのでしょう。こんな華やかな金沢駅とは対照的な「何だこれは!」の世界が金沢の片隅に存在していて北陸鉄道石川線、金石線を紹介してきましたが次は浅野川線です。

急行「加賀」

モハ572 北鉄金沢
この古ぼけた単車は貨物用に使われ北鉄金沢駅から延びる国鉄連絡線で使われていたようだ。華やかな国鉄交直流電車とはあまりにも対照的な凄い風景。

貨物は電車が牽いていた

サハ211+サハ221
翌年に見たときは内灘の先に延びる線路に放置され荒れていた。内灘の先へ海岸まで延びていた線路を電車に牽かれて海水浴客を運んでいた素晴らしい光景(想像)が目に浮かぶ。

クハ1602 この頃の浅野川線は他線に比べるとマトモな電車でインパクトは少なかった.

狭苦しい北鉄金沢駅

金沢の旅館から眺めた市内線

金沢駅前で線路は左へカーブし、その先に単車が見える??

翌年に駅前の市内線軌道配置に変化があったのか?  金沢駅前 1963.07.12


金沢駅前 1964.10.05 工事中?

金沢駅前 1964.12.31
1年半後の駅前の市内線軌道配置はシンプルになっていた.

6 件のコメント:

常夜燈 さんのコメント...

サハが内灘にいたのですか!行けばよかった(涙)
このサハ達も北鉄金沢ではモハ572のお世話に
なっていたかも。市内線最初のカットの後方
ビルの左が国鉄金沢駅上の金沢管理局です。
この辺りも道路拡張で変わりました。

katsu さんのコメント...

昭和32年休止となった内灘~粟ヶ崎海岸でこのサハを牽いていたポール電車とはモハ572かも知れませんね。

金沢市内線を撮った場所が国鉄金沢駅前と思いますが位置関係がよく判りませんでした。
市内線最初のカットの後方にバカでかいビルがあり、その左の低いビルが金沢駅でしたか。
大きなビルに見えた金沢駅もこの写真では随分イメージが異なるものですね。
金沢の街に市内線はよく似合うと思います。
早々に時代の波に押され路面電車撤去は残念でしたね。
マイカーによる街の分散拡散が地方衰退の原因になろうとは思いもよりませんでした。

esehoku さんのコメント...

やっぱりかつての北陸鉄道は、時代によりゲテモノ度に違いはありますが、なんか本当にテキト~に造ったり改造したりで百鬼夜行でしたね。それが何とも言えない味わいを醸し出していました。
でも、昔の地方鉄道とか田舎のデパート(百貨店)とか映画館などって、その土地ならではの味があったような気がします。即ち…
①その土地の規模、需要などに合わせて、小さい町には小さいなりの、大きい町にはそれなりの店舗があった。
 (現在のように、どこに行っても大手系列のショッピングモールがあり、品揃えから何から何までが、どこに行っても同じ…という事がなかった。)
②田舎は、大きな町に行かないことには、物も情報も手に入れる事ができなかった…。しかし、最低限の物は賄えるようになっていて、その上でどうしても賄えないものは、大きな町へ行く必要があった。
③そんな中で、なんとかして、田舎なりに豊かであろうとした。ただそれは時として、都会的であろうとして、どこか垢抜けない物も産み出した。
…ちょっとこじつけくさいかもしれませんが、くたに号/しらさぎ号なんて①~③の現象を如実に現している一例だと思うのです。
大都会・大手のロマンスカーは無理だけど、温泉郷の需要と、華やかな物への憧れを精一杯形にしたのだと思います。
現在の、何処へ行ってもショッピングモールで同じような風景と、大都市のデッドコピーみたいな町作り…。古きよき時代はもう帰らないのでしょうか…。
地方鉄道も例外ではないですね。
何もかもが「昔は良かった」で語りはしません。かつての北鉄の百鬼夜行ぶりが想像できないくらいにキレイになったのは良い事ですが…あまり無機的な新しさ(実用オンリー)とか、取って付けたような演出の個性は、できれば勘弁してほしいです。
以上、長文すみません��✋��

katsu さんのコメント...

esehokuさん
「昔はよかった」の懐古趣味は私もやりたくありません。
懐古趣味かどうかに関係なく昔の北陸鉄道の車両には魅力が溢れていたのは間違いありませんね。
あの時代の車両がいかに今に通じる魅力があったかは、次々と模型製品化されることからも分かります。

街や鉄道がどんどん効率を求め無駄を排し画一的になって、その土地独特のローカルカラー(施設や車両)が消えていく、これは仕方のない事でしょう。地方私鉄もかろうじて残された遺産の保存活動をつなげて将来まで遺すしかないのでは。
それにしても、鉄道文化先進国の保存鉄道などは羨ましい限りです。

代打・山本 さんのコメント...

北陸鉄道では石川総線を皮切りに加南線、浅野川線の順で木造車の淘汰、パンタグラフ化、間接制御化、貫通路の設置といった車両近代化を進め、金石線では昭和39年に石川総線からモハ3001~3005、3011、クハ1101の7両が異動し、電機代用だったモハ1301以外の旅客車全てを入れ替えることで達成されました。

田辺氏が訪れた昭和38年はその近代化が推し進められる真っ只中で、木造のぶら下がりサハの最後の姿をとらえた貴重な記録と言えるでしょう。

ちなみに最後になった小松線では、金石線の廃止でモハ3001~3005が転入した昭和46年まで待たねばなりませんでした。

浅野川線のサハ221はモハ571~573と車体が同寸、211はモハ1301に鉄板を貼られる前のモハ831を単車にした形で、いずれも大正14年の開業時からの生え抜きでした。
晩年は単車2両でボギー車1両分と見なされ、コンビで使われることが多かったようです。

katsu さんのコメント...

代打・山本さん
いろいろ情報ありかどうございます。
金石線は私が訪問した昭和39年大晦日はサハは貨物に使用されていて、ぶら下がりのサハの光景は見れなかったのでこの1年の差は大きかったです。正に昭和38年は近代化が推し進められる真っ只中はだったのですね。
金石線も小松線もゲテモノ車両淘汰は石川総線の3000形投入が一つの区切りであったということですか。