案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2014年2月19日水曜日

国鉄会津線 C11と大内宿-3

鉄道・民家を愛する青蛙 さんは2007年に大内宿を訪問していましたので、青蛙さんが撮った最近の大内宿と、まだ観光地化される以前1972年の大内宿(前々回に紹介)の風景を対比してみました。

奇麗に整備された大内宿の街並を俯瞰してみると見事な美しさだが、ひとたび道路に降りると俗化した観光スポットの光景がある。街並の遺産を保存維持して行くためには観光事業を進めるしかないのでしょうけど昔あった魅力は失われてしまう。

カラー3枚 撮影 青蛙さん

子安観音堂付近から見た大内宿.  2007年5月
遠方から見た大内宿の光景は5月の新緑に囲まれ茅葺屋根の街並が今でも美しい.
これを見ていると行きたくなってくる風景だ.

上の写真の反対側から道路を進むと左に鳥居、右に火の見やぐらがある.

さらに道路を奥へ進んだ奥から5軒目の大和屋あたりの賑わい.

上の写真の昔の風景. 1972年6月
観光地化される以前のひっそり静かな生活があった大内宿.

 



民家風に改築された最近の湯野上温泉駅. 2011年11月

初めて訪問した会津線.改築前の湯野上駅全景. 1971年10月

会津線C11が行く湯野上近辺 1971年10月

4 件のコメント:

kotaro さんのコメント...

初めまして。最近友人にこのサイトのことを教えてもらい、見るようになりました。
大分交通耶馬渓線に思い出の多い、福岡県出身の者です。
大内宿は、訪問したことがなく知識のみですが、私の場合、白川郷に一昨年、30年ぶりに訪問して、同じような落差を感じました。1979年の初探訪時も既に観光地化は始まっていたのかもしれません。世界遺産の指定で、一緒に初めて行った知人は感動していましたが、私は諦めと、秘境というのはだんだん無くなって行くものと思いました。
失礼いたしました。

katsu さんのコメント...

kotaroさん
コメントありがとうございました。
わたしは白川郷には行ったことがありませんが、やはり大内宿と同じような落差を感じましたか。一度は行きたかった白川郷もこんなでは躊躇してしまいます。

今ではどこの秘境も秘境ではなくなって人が溢れる観光地化しているようです。日本は1970年頃のディスカバージャパンをきっかけに各地の観光地化が始まったのでしょう。
あの汚かった日本がいつの間にかどこへ行っても奇麗な日本なったものです。でも集客力がある奇麗な観光地には何か本物の良さが失われてしまったようですね。

panda さんのコメント...

いつも楽しく拝見させていただいています。懐かしの1960年代・・あの頃は日本も何か活気があって人々の表情も生き生きとしていた懐かしい時代です。古き良き日本と云われますが、投稿された大内宿など観光地化してしまって、地域の生活も一変してしまったようですね。私は何気ない風景が好きで関西を中心に訪ねています。便利になったのは確かですが・・それに比例して良き日本の風景がどんどん消滅していくのですね・・鉄道をとおして懐かしく毎日覗かしてもらっています。子供の頃、兵庫県の別府鉄道のすぐ近くで育ちました。
何度も乗りました・・真夏の油臭い匂いが懐かしく思います。機関庫にも顔なじみでフリーで入れました。お菓子もいただきました。全てが懐かしい・・写真を拝見していると昨日のように思い出されます。私達は別府鉄道を「レッカー」と呼んでいましたよ・・これからも楽しみにしています。

katsu さんのコメント...

pandaさん、
鉄道を通して古きよき時代を楽しんで戴けたら嬉しいです。
また別府鉄道の思い出をありがとうございました。私は昭和37年夏に別府港駅の脇にあった機関区を訪問しましたが、その時に機関区の方が冷たい麦茶を出してくれたことが今でも忘れられません。この頃は撮影許可のお願いをすればどこの機関庫でも自由に出入りさせてくれ、遠方から来たことが判ると大歓迎してくれたものです。
この頃の別府鉄道では近隣の人達とも交流があったのですね。鉄道に働く人達と、近隣の人々、鉄道ファンとの交流があった良き時代だったと思います。