案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2013年11月27日水曜日

あれから50年の東京モーターショー2013

サニー、カローラが登場しマイカー時代幕開けとなった東京モーターショー1966から約50年が経った今年の東京モーターショー2013。あの時の人々のクルマへの憧れはすっかり消えたが会場の熱気は50年前と変わらないようだ。

マイカー時代幕開けとなった1966(昭41)年の東京モーターショー1966

東京モーターショー2013
これからの生活の足はEVの時代. ミニEV

EVを飛び越えた究極の燃料電池車が実用化されるのは遠い未来か?

今の日本には似合わない昔憧れたクルマ

会場の熱気

2013年11月23日土曜日

九十九里鉄道 キハ102の最後

九十九里鉄道のあとかた」 で九十九里の車両の解体残骸現場を紹介したことがありますが、そう云えばあの現場でキハ102を採寸したことを思い出しました。ノートをめくってみるとキハ102そしてボギー客車ケハ111の一部が採寸してありました。不思議なのは採寸した窓回りなどの残骸が写真に写ってなく、ボギー客車に至っては何も写っていません。たぶん、採寸できた残骸はバラバラになって草むらに転がっていたのでしょう。
こんな残骸は更に細かくされてトラックへ積まれているところで、あとかたも無くなる寸前のキハ102でした。

解体現場の残骸を採寸したノート S50-5-3 東金にて 九十九里鉄道ケハ111、キハ102
ボンネット含む車両最大寸法(長×幅×高)については鉄道模型趣味No.81にあった
九十九里キハ100形の車両竣功図と諸元表により把握することができた。


悲しいキハ102最後の姿     東金 1975.05.03

側面の社紋とキハ102表示

リヤ面の102表示

ラジエターと散乱しているキハ100形の各部位

解体撤去作業

1/80 9mmナロー 九十九里キハ102タイプ(車体) 南洋物産㈱製

2013年11月17日日曜日

1/80模型 大人と子供

以前、近鉄四日市駅の内部・八王子線(旧三重電気鉄道)「大人と子供」を紹介したことがありますが、
この駅の「大人と子供」対面風景を模型で再現された方からメールを戴きました。
模型は近鉄湯の山線が18mmゲージ、内部・八王子線の軽便が9mmゲージで、縮尺1/80。
更に13mmゲージがあり1/80 9mmナローの存在理由がここにあります。
接続駅がある軽便鉄道の楽しさは、実物も模型も正にこの対比にあり と思います。

四日市駅の大人と子供  1965.8.5
近鉄湯野山線と内部・八王子線(旧三重電気鉄道)の
標準軌1435mmとナロー762mmの電車が対面する場面.

 模型で再現「大人と子供」 9mmGと18mmG  1/80

複線が狭軌13mm、単線が標準軌18mm、右端の小さいのが軽便9mm  全て縮尺1/80   
軽便が楽しくなる羨ましい運転会です。


昨日の講演で使った資料

2013年11月8日金曜日

能登金剛ともう一つの能登線

能登半島の元国鉄七尾線・能登線のその後は名称の経過が複雑で調べていると大混乱。今走っている鉄路はJRが津幡~七尾~和倉温泉間まで、のと鉄道が七尾~和倉温泉~穴水まで、その他は廃線で消えたという事になるのでしょう。

能登半島の鉄道

能登半島の東側にある能登金剛と言えば松本清張の「ゼロの焦点」、その能登金剛に近い「三明」までもう一つの能登線である北陸鉄道能登線(羽咋~三明間25.5Km)が何と昭和47年6月まで走っていた。
現役時代の北陸鉄道能登線を訪問したのはこの能登半島めぐりのずっと昔昭和37年であった。昔は国鉄七尾線の羽咋で北陸鉄道能登線に乗換え三明まで行き、そこから国道をバスで能登金剛の近くまで行く、そんな観光ルートだったのでしょう。

「能登金剛」は約30kmに亘って奇岩、奇勝、断崖が連続する海岸. 1972年9月
この「能登金剛」巌門はかっての北陸鉄道能登線の終点三明から数キロの位置にある.

夏の能登海岸をのんびり走っていた能登線. 1962年夏

 海岸線を行く能登線 柴垣-滝

キハニ5102 雨宮製作所昭和6年製.  羽咋
能登線には能登にふさわしい個性的な気動車が揃っていた.

小型ボギートレーラ.  コハフ3001

七尾線のC58

2013年11月4日月曜日

茨城交通湊線 湘南スタイルの気動車

北海道集団がやってくる以前の茨城交通に所属していた気動車はキハでなくケハと表示され、那珂湊車庫にはケハ401、ケハ402、ケハ45が休んでいた。この日出動していたステンレス車ケハ601を含めこの頃の湊線には地方私鉄らしい湘南スタイルの気動車が3両(ケハ401、402、601)揃っていたわけです。

ケハ401  那珂湊 1972年夏
ケハ401は茨城交通茨城線(赤塚~御前山)で最後まで活躍した車両で、1971年2月の廃線後に湊線へ移動して間もない姿であった。ドアのステップが大きく下った田舎臭いスタイルでツートンカラーで茨城線で活躍していた姿は想像しただけで堪らない魅力を感じてしまう。
こちらが有田鉄道キハ250と同形で山鹿温泉鉄道の注文流れを引き取ったとのこと。

有田鉄道の同形車

ケハ402   那珂湊 1972年夏
ケハ402は元から湊線にいた気動車で、これも湘南スタイルでツートンカラーの気動車を雑誌などで見て湊線と言えばこのケハ402のイメージが強かった。こうして2両とも羽幌炭礦鉄道カラーに塗られてしまうと別物になってしまうものだ。


ケハ45  那珂湊 1972年夏
元国鉄04のケハ45も茨城線で最後まで活躍して湊線へ転籍した気動車で茨城線時代のツートンカラーのままであった。

湊線を代表するのが日本初のステンレス製気動車ケハ601で昭和35年新潟鉄工所製。湊線の湘南スタイル気動車ケハは全て新潟鉄工所製が揃った。国鉄規格型北海道集団の投入で、この後の湊線は地方私鉄らしさ(車両)は一掃されてしまった。
ケハ601   阿字ヶ浦 1972年夏

阿字ヶ浦のいも畑と潮風の中を行く湊線ケハ


2013年11月3日日曜日

茨城交通湊線 那珂湊車庫

1972(昭和47)年夏の茨城交通湊線は「海辺の終着駅」で阿字ヶ浦駅風景を紹介したことがあります。この時の湊線は北海道からやって来た暗いえんじ色気動車集団に入れ変わった頃で、これらの車両には全く無関心だったのですが、改めて那珂湊車庫で撮った写真を見てみると活躍の場を失った元茨城交通茨木線の残党や湊線で活躍していた残党がまぎれていました。まずは那珂湊車庫の風景から。

1972年夏の那珂湊車庫
車庫には元北海道集団の有り余る大変な台数が占領していた. 
右に休むのは元々湊線でツートンカラーに塗られていた湘南スタイル2枚窓で
北海道集団の暗いカラーリングに統一されて見分けがつかなくなっていた。

元留萠鉄道のキハ1001


茨城交通発注の生え抜きケキ103とケキ102 新潟鉄工所製.  那珂湊車庫 1972年8月
どこかで見たようなB-B型機関車は津軽鉄道のDD351、352と全くの同型機だそうだ.
ケキ103は通勤時や海水浴シーズンには客車5両を牽いて活躍したそうである.

主力となっていた元北海道濃えんじ色気動車