案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2013年7月7日日曜日

山岳路面電車4 登り詰めたところが馬返駅

特記なき撮影日は1963.07.14   昔の写真は全て青蛙さん撮影
荒沢橋梁を渡るED611

道路端の軌道をどこまでも勾配を登る.

電車庫前、清滝を過ぎ急カーブを曲がると国道120号線と並走する.

大谷川沿いに国道120号線を進む.


馬返の直前で軌道は国道120号線をクロスして山側から川側に出る.

大谷川と国道に挟まれた軌道は直ぐ馬返に着く.
背後に馬返-明智平のケーブルカーが見える.

日光駅前から高低差305mを登って馬返駅に到着する.
中禅寺湖へ向かう乗客はここでケーブルカーに乗換え明智平に登り更にバスに乗換えていた。この後の第二いろは坂の完成(昭和40年)とマイカーブーム到来で、日光軌道線とケーブルカーの連携輸送は役目を終え、馬返-明智平ケーブルカーは軌道線廃止2年後の1970(昭45)年に廃止された。

日光軌道線が登って来た道を明智平から見る.2013年6月
昔、下の馬返からこの明智平までケーブルカーが登っていた。軌道線が走っていた大谷川沿いの国道が見え、左にカーブした先に精銅所があった古河電工が見える。

13 件のコメント:

H.Kuma さんのコメント...

そうそう。確かにこんな線路まで覆う大きな屋根が駅跡に残っていたのを記憶しています。バスの車窓から一瞬目にしただけの筈なのに、何でこんなに印象に残っているのか不思議です。坂道を登って来て急な斜面に突っ込むように終わっていた日光軌道線、馬返は終端駅としてなかなかに魅力的ですね。

Cedar さんのコメント...

修学旅行の一年後に、家族で日光に泊まりがけで出掛けました。往路は浅草から東武、日光軌道線で馬返へ。鉄骨屋根の下でケーブルカーに乗換えました。復路は国鉄の157系の「中禅寺」号で新宿へ。
随分鉄分濃厚な旅だったのに、写真が残ってないのは残念です。

chitetsu さんのコメント...

私の修学旅行の頃は既に廃止になっていましたが、馬返の駅はそのまま残っているのをいろは坂を登ろうとするバスの車窓から見たのを思い出しました。
東北道もない時代の国道4号線をひたすら北上したバス旅行、電車にして欲しかったと恨めしく車窓から東北線を見たのを思い出しました。

katsu さんのコメント...

H.Kumaさん
日光軌道線の廃線後、日光駅前からバスで一気に中禅寺湖へ向かっていた時代ですね。
この時代に私も何べんもここを通過した筈なのに馬返の駅跡を知らずに目に入りませんでした。

katsu さんのコメント...

Cedarさん
家族での日光行きは浅草から中禅寺湖まで素晴らしい体験でしたね。今ではできない贅沢な乗り継ぎ旅の思い出が貴重と思います。
軌道線がなくなってマイカー時代になってから日光の魅力は歩かないと駄目ですね。

katsu さんのコメント...

chitetsuさん
修学旅行の日光はバス旅行でしたか。
私は東京から日光まで何に乗って行ったのか全く記憶がありません。
軌道線廃線後の馬返駅跡を見た方は多いのですね。
関心が無かった私は馬返駅跡は何も見えず残念なことをしてしまいました。

にわとり さんのコメント...

見たこと無いのに懐かしい・・・。
素敵な時代だったのですね。

katsu さんのコメント...

にわとりさん
お久しぶりです。
昭和40年代に入って、全国で地方私鉄が次々と廃線となり消滅して行った時代でした。
マイカーと道路整備の普及で旅の足が大きく様変わりしていた1960年代後半であったと思います。

検査掛 さんのコメント...

初めまして。検査掛と申します。
津島軽便堂さんのブログよりアクセスさせて頂きました。
現在は関東を離れておりますが、大学卒業まで過ごしておりました。
日光へは小学4年生、10歳の時(1966年)に一度行ったきりになっておりますが、東武日光軌道線はうる覚えに覚えております。当時、家業が生鮮食料品店で、めったに休みのない父が、珍しく店を休んで連れて行ってくれたのでした。まだ、カメラを持つなど、夢のまた夢の頃で、本当に微かな記憶の中ですが、塗色が鮮明でした。
実のところは、帰りに当時まだデビュー間もないDRCに乗って、興奮したことのほうが、ハッキリした記憶ですが・・・。

katsu さんのコメント...

検査掛さん
はじめまして。津島軽便堂さんからのアクセスありがとうございました。
遠い昔の日光への家族旅行は素晴らしい思い出でしたね。
その時にまだ走っていた東武日光軌道線の塗装色が鮮明に瞼に焼きついたというわけですね。
多くの写真よりも日光軌道線をこの目で見たというのは貴重な体験だったと思います。
子供にとっては日光軌道線よりも帰りの東武ロマンスカーの方が遥かに興奮したことよく分かります。
私も小学生だったらきっと同じでしょう。

ハナサク さんのコメント...

始めまして。懐かしいです。宇都宮出身なので家族旅行で日光にはよく出かけましたが、いつも親の車だったので実際に乗車したことはなかったです。車両は左右非対称の全面窓が珍しく派手な塗装とともに印象に残っています。馬返駅は遊園地のようなドーム型の大屋根が山間いの鉄道駅としては斬新で印象に残っています。廃線後はしばらく放置されていたので構内に自由に入ることができました。また、そこから明知平に伸びるケーブルカーの大鉄橋は大変大きな構造物で、今もし残っていたら産業遺構として注目されたと思います。また、東武電車~日光軌道~ケーブルカー~ロープウエイといろんな種類の乗り物を乗りついでいく行程は珍しく、廃止されたのは本当に残念です。積極的に観光誘致のアイテムとして売っていく方法もあったのではないかと思えてなりません。箱根や立山黒部アルペンルートのように。
神橋と太郎杉に挟まれた東照宮前の狭いところを軌道と道路が窮屈そうに並走していましたが、ここの道路渋滞がネックで問題になり、道路を拡張することが優先され軌道が廃止に追い込まれたと親から聞きました。

katsu さんのコメント...

ハナサクさん
コメントありがとうこざいました。
日光でいろいろな乗り物を乗り継いでいく旅の楽しさが消滅してしまったのがほんとうに残念ですね。
当時は神橋あたりの道路渋滞で路面電車は廃止せざるを得なかったのでしょう。
しかし今や立派なバイパスがありクルマでいろは坂へ向かうとこの辺りは素通りですね。
そしてクルマ以外の楽しみ方の価値観も変わってきたので、昔のような交通手段も人気がでるかも知れません。
これまでのクルマ社会の時代と違って、これからは新しい交通手段で日光を楽しめるようになると良いのですが。

風旅記 さんのコメント...

こんにちは。
日光に路面電車があったこと、私は鉄道が好きですので知識として知ってはいましたが、社会的には既に風化しつつある記憶なのかもしれません。
東武博物館で保存車両を見たことがありますが、こちらでお写真を拝見し、これだけの坂を上り下りしていたのだと感心致しました。
他の方のコメントにもありましたが、「車社会の到来」といった表現の通り、社会が変化が分かる程に急速に変わっていくときには、一方で、それまであったものを破壊していく力も非常に大きいのだろうと思います。
戦後という言葉がまだ生きていて、皆が豊かな暮らしを追い求めた時代です。
「ある一箇所の渋滞」も、その時点においては旧来からある路面電車を廃止して消すところまで突き進んでしまうだけの根拠になったのだろうと思います。
今となってはそこまでしなくてもと思いますが、それは後になって分かることなのでしょうね。
半世紀後には、むしろ車の乗り入れを禁止して、路面電車を含む様々な乗り物が充実している方が豊かな観光地になっているかもしれない、できることなら伝えてあげたいですけれど。