おはようございます。日光軌道線の廃線探索を昔行いましたが、神橋の昔の写真を見られて良かったです。1964年は私の生まれた年です。
歩鉄の達人さんおはようございます。先月に神橋横を車で通りましたが残念ながら橋脚跡は撮れませんでした。ここを元アプト式ED40形が渡るシーン(1950年)を撮った巨匠高橋弘氏の作品を写真展で見た時は暫し釘付となりました。こんな珍奇な機関車が廃線まで残され、復元して鉄道博物館に保存されているのは嬉しいですね。
荷を満載した貨車を牽いて下って来る貨物列車はすごい迫力でした。元アプトのED602は東武日光にいましたがこちらが牽けば音量が増し更に迫力あるシーンだったか?歩鉄の達人様へ。拙作HP作成の際に参考にさせて頂いています。
常夜燈さん常夜燈さんのお写真を拝見すると、廃線直前頃で元アプトED602が日光駅の貨物線に居ますね。東洋工機製ED611で良いので見たかったものです。東武日光駅前のもう一本の軌道は貨物線でしたか、常夜燈さんのお写真でやっと判りました。それにしても国鉄日光駅と東武日光駅があり東武日光駅からの乗降場所はかなり変則的なようですね。
いい写真を見せていただきました。日光軌道線、小学校の修学旅行でバスの中から馬返の駅跡が一瞬見えたのを覚えています。当時は何か分からなかったのですが、その後軌道線のことを知りました。修学旅行で訪れたのは、廃線となって一年後のことでした。
日光に「市電」が走っていたことはもちろん知っていましたが、乗る機会もないまま消えてしまいました。タイムスリップできたならぜひとも乗ってみたかった路線です…。沿線に古河電工の精錬工場があることは知っていましたが、観光バスも行き交う目抜き通りのど真ん中を、精錬工場と行き来するのであろう長い編成の貨物列車が走り抜けていたとは知りませんでした。日光市は、今市市など近隣の市町村を合併してやたらに広くなりました。「日光市でない」ことが不思議に思っていた鬼怒川温泉はともかく、湯西川温泉や足尾銅山まで「日光市内」というのは「いまいち」ビンと来ないような気がしますがねぇ…。
H.Kumaさん日光は小学校の修学旅行の定番だったようですね。先日、車で通過した時は馬返の駅跡はよく判りませんでした。廃線跡めぐりの目的で行かないとダメですね。以前、この馬返へ向かう道路は何回も走っているのに昔軌道線が走っていた事は眼中にありませんでした。今になってみると惜しいことをしました。
伊豆之国さん今、軌道線とケーブルカーがあったら日光めぐりの良い足になったのではないでしょうか。これからはマイカーを使わない旅の楽しみ方がもっと求められる時代が来るかも知れません。ほんとうに急こう配を登る路面電車に乗ってみたいものですね。そして路面軌道を走る古河電工の貨物輸送は興味深々ですね。私は日光駅の国鉄線との接続部分が堪りません。
まさしく日光は小学6年生の修学旅行先でした。しかし、その頃の修学旅行はカメラなど貴重品の持ち込は一切禁止の時代です。日光軌道・観光用の索道など、普段見られない様な光景を目の当たりにしながらも、何も記録できなかった口惜しさが残っています。もっとも、小学生にはそれらが廃線が近く貴重だとの意識は無く、当時は単に珍しい鉄道を取り損なったという感情のみでしたが。
Namikiさんやはり小学6年生の修学旅行でしたか。私は生まれて初めての1泊旅行で日光が大変遠い土地に感じたものです。Namikiさんの時代の更に昔でカメラは全くなく思い出は写真屋さんが撮った集合写真1枚のみでした。この時代に私は地方の軌道線なんぞには全く関心が無く都会電車や国鉄人気車に憧れたものです。カメラも関心も無かったこの頃の日光軌道線は、近代化(新型車)により単車テ12を残して良き時代の全てが消えた直後だったようです。
先日旅行で日光に行きました。私は2000年生まれなので往時のことは知らないのですが、東武日光駅から東照宮まで歩いている途中に錆び付いた柱らしきものを見ました。あれも遺構でしょうか?
匿名さん東武日光駅から神橋、東照宮方面へ国道を歩くと警察署前あたりに1箇所だけ架線柱が残っているのは軌道線の遺構のようです。私はその先にある田母沢橋梁だけしか見てませんが、終点馬返しまでけっこう遺構が残っているようです。
懐かしい記憶が甦ります。大谷川沿いで子供時期を過ごしました。家は東京でしたが荷物が送られてくるとまず郵便で符丁が届きます。国鉄日光駅から電話がくるとその符丁を持って窓口へ。(2枚目の写真入口右手の窓です)荷物に付いている符丁と持っていった符丁を照らし合わせて合致すれば受け取れるレトロシステムでした(笑)
宮本のん太さんまだ宅配便がなかった時代に駅に荷物扱いがありましたね。東京の私鉄駅でも切符売り場の横に荷物の窓口がありました。国鉄日光駅の素晴らしい建物は昔のままで当時の荷物扱い名残があるのでしょうか。door-to-doorで届けてくれるのと違って昔の符丁はほんとうに長閑なやりとりですね。それとコインロッカーがなかった時代に駅の一時預けで荷物をよく預けました。今の無人機と違って人が介在したシステムが懐かしくなります。
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14 件のコメント:
おはようございます。
日光軌道線の廃線探索を昔行いましたが、神橋の昔の写真を見られて良かったです。
1964年は私の生まれた年です。
歩鉄の達人さん
おはようございます。
先月に神橋横を車で通りましたが残念ながら橋脚跡は撮れませんでした。
ここを元アプト式ED40形が渡るシーン(1950年)を撮った巨匠高橋弘氏の作品を写真展で見た時は暫し釘付となりました。
こんな珍奇な機関車が廃線まで残され、復元して鉄道博物館に保存されているのは嬉しいですね。
荷を満載した貨車を牽いて下って来る
貨物列車はすごい迫力でした。元アプトの
ED602は東武日光にいましたが
こちらが牽けば音量が増し更に
迫力あるシーンだったか?
歩鉄の達人様へ。拙作HP作成の際に
参考にさせて頂いています。
常夜燈さん
常夜燈さんのお写真を拝見すると、廃線直前頃で元アプトED602が日光駅の貨物線に居ますね。
東洋工機製ED611で良いので見たかったものです。
東武日光駅前のもう一本の軌道は貨物線でしたか、常夜燈さんのお写真でやっと判りました。
それにしても国鉄日光駅と東武日光駅があり東武日光駅からの乗降場所はかなり変則的なようですね。
いい写真を見せていただきました。日光軌道線、小学校の修学旅行でバスの中から馬返の駅跡が一瞬見えたのを覚えています。当時は何か分からなかったのですが、その後軌道線のことを知りました。修学旅行で訪れたのは、廃線となって一年後のことでした。
日光に「市電」が走っていたことはもちろん知っていましたが、乗る機会もないまま消えてしまいました。タイムスリップできたならぜひとも乗ってみたかった路線です…。沿線に古河電工の精錬工場があることは知っていましたが、観光バスも行き交う目抜き通りのど真ん中を、精錬工場と行き来するのであろう長い編成の貨物列車が走り抜けていたとは知りませんでした。
日光市は、今市市など近隣の市町村を合併してやたらに広くなりました。「日光市でない」ことが不思議に思っていた鬼怒川温泉はともかく、湯西川温泉や足尾銅山まで「日光市内」というのは「いまいち」ビンと来ないような気がしますがねぇ…。
H.Kumaさん
日光は小学校の修学旅行の定番だったようですね。
先日、車で通過した時は馬返の駅跡はよく判りませんでした。廃線跡めぐりの目的で行かないとダメですね。
以前、この馬返へ向かう道路は何回も走っているのに昔軌道線が走っていた事は眼中にありませんでした。今になってみると惜しいことをしました。
伊豆之国さん
今、軌道線とケーブルカーがあったら日光めぐりの良い足になったのではないでしょうか。
これからはマイカーを使わない旅の楽しみ方がもっと求められる時代が来るかも知れません。
ほんとうに急こう配を登る路面電車に乗ってみたいものですね。
そして路面軌道を走る古河電工の貨物輸送は興味深々ですね。
私は日光駅の国鉄線との接続部分が堪りません。
まさしく日光は小学6年生の修学旅行先でした。しかし、その頃の修学旅行はカメラなど貴重品の持ち込は一切禁止の時代です。日光軌道・観光用の索道など、普段見られない様な光景を目の当たりにしながらも、何も記録できなかった口惜しさが残っています。もっとも、小学生にはそれらが廃線が近く貴重だとの意識は無く、当時は単に珍しい鉄道を取り損なったという感情のみでしたが。
Namikiさん
やはり小学6年生の修学旅行でしたか。私は生まれて初めての1泊旅行で日光が大変遠い土地に感じたものです。
Namikiさんの時代の更に昔でカメラは全くなく思い出は写真屋さんが撮った集合写真1枚のみでした。
この時代に私は地方の軌道線なんぞには全く関心が無く都会電車や国鉄人気車に憧れたものです。
カメラも関心も無かったこの頃の日光軌道線は、近代化(新型車)により単車テ12を残して良き時代の全てが消えた直後だったようです。
先日旅行で日光に行きました。私は2000年生まれなので往時のことは知らないのですが、東武日光駅から東照宮まで歩いている途中に錆び付いた柱らしきものを見ました。あれも遺構でしょうか?
匿名さん
東武日光駅から神橋、東照宮方面へ国道を歩くと警察署前あたりに1箇所だけ架線柱が残っているのは軌道線の遺構のようです。
私はその先にある田母沢橋梁だけしか見てませんが、終点馬返しまでけっこう遺構が残っているようです。
懐かしい記憶が甦ります。
大谷川沿いで子供時期を過ごしました。
家は東京でしたが荷物が送られてくるとまず郵便で符丁が届きます。
国鉄日光駅から電話がくるとその符丁を持って窓口へ。
(2枚目の写真入口右手の窓です)
荷物に付いている符丁と持っていった符丁を照らし合わせて合致すれば受け取れるレトロシステムでした(笑)
宮本のん太さん
まだ宅配便がなかった時代に駅に荷物扱いがありましたね。
東京の私鉄駅でも切符売り場の横に荷物の窓口がありました。
国鉄日光駅の素晴らしい建物は昔のままで当時の荷物扱い名残があるのでしょうか。
door-to-doorで届けてくれるのと違って昔の符丁はほんとうに長閑なやりとりですね。
それとコインロッカーがなかった時代に駅の一時預けで荷物をよく預けました。
今の無人機と違って人が介在したシステムが懐かしくなります。
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