案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2024年11月22日金曜日

西弘前駅

リンゴの匂い漂う西弘前駅(現弘南学院前).
右手貨物上屋にリンゴがビッシリ積まれていた。


弘前電気鉄道(現弘南鉄道大鰐線) 1966.03.03

モハ105+クハ202

2024年11月7日木曜日

駿遠線の荷物合造車

駿遠線の荷物合造車ハニの風景。 特記なきは1967.7.9撮影


DB607が牽く列車にハニ1がいた.芝 1963.4.4
奥山線の帰りに初めて駿遠線を訪問したのが1963年4月。いきなりDB607が牽く旅客列車に出会ったのには驚いた。まだ盛んにDB機関車が活躍していた時代であった。その中に初めて見る荷物合造車ハニ1が連結されていた。駿遠線は全く知らない車両ばかり。それくらい鉄道誌にはまだよく紹介されていない路線であった。

次々とDB機関車の列車が発着する袋井駅. DB604とDB608 1963.4.4




新岡崎で大きな荷を担いだ乗客がハニに乗り込むと、列車は袋井へ向って行った.


新岡崎で大きな荷を担いで乗り込んできた行商人2人.扉の向こうが荷物室で手前は定員32人の軽便の小さな客室.軽便らしい車内風景だった。



特異な外観が魅力のハニ1 新横須賀


ハニ1  新横須賀


ハニが休んでいた新横須賀駅の風景.


2024年10月29日火曜日

昭和39年10月31日

facebookの二番煎じですが

昭和39(1964)年10月は東海道新幹線の開業で日本中が沸いた。大学の工学祭では鉄研が新幹線の技術話題を纏めて掲示していた。
そんな秋の10月31日、私は遠州鉄道奥山線の最終日を撮りに出掛けた。昭和39年は正月の沼尻から始まり大晦日の金沢市内線まで地方私鉄めぐりの撮影がピークの1年であった。

この工学祭では「生き残った軽便鉄道11社」の写真も展示をしたが、昭和39年は西大寺鉄道(昭和37年廃止)を除く軽便鉄道11社がまだ動いていたことになる。いつでも現地に飛び出せば軽便鉄道が撮れた時代だった。軽便鉄道最後の時代がちょうど学生時代だったのが幸運であった。

撮影:1964.10.31

「さようなら皆さん」最終日の奥山線.谷~都田口
前方遠くに引佐(いなさ)の山並みが連なる.

気賀口を発車する奥山線最終列車.

セレモニーを終えて薄暗い気賀口を発車する最終列車.


秋の大学工学祭では鉄研が新幹線情報を掲示した.


新幹線とは余りにも対照的な展示で見る人もいなかったのでは?トホホ。
撮影直後にプリントしたのはこの「生き残った軽便鉄道11社」の11点だけだった。
あとは40年後に初めてプリントしている。


花巻電鉄軌道線 高倉山温泉辺り 1964.8.2 
砂利道の道路の端っこに遠慮がちに敷かれた軽便トロリーラインの軌道。豊沢川に沿った道路に自動車はほとんど走ってなく、歩いている老婆が一人。この先を花巻方面へ向かうと「山の神」電停で、その先に大沢温泉駅があった。


54年後に陽の目をみた写真.


2024年10月6日日曜日

講演「地方私鉄めぐりの旅 魅力のナロー情景」より(3)

1963年4月30日で部分廃線となった気賀口~奥山間を日中1往復の気動車に乗って奥山へ向かったのが1963年の4月。奥山は桜が満開だった。
 


全てオリンパスペンSハーフ判カメラで撮影
1963.4.4 

奥山駅が近い.


気賀口から20分ほどで桜満開の奥山駅に到着した.



2024年10月3日木曜日

講演「地方私鉄めぐりの旅 魅力のナロー情景」より(2)

車両がいないナローの情景。
ナローは線路だけでも駅だけでも絵になる情景となる。

車両写真と走行写真を目指して「地方私鉄めぐりの旅」で撮りためた写真を50~60年後に見ると、ナローは駅が魅力的でこれらの写真は使い切った感があります。 


西大寺鉄道 広谷 1962年夏


井笠鉄道 井原 1962年夏


遠州鉄道奥山線 祝田 1964年春


仙北鉄道 米谷 1964年夏


頸城鉄道 大池 1970年晩秋


2024年10月1日火曜日

講演「地方私鉄めぐりの旅 魅力のナロー情景」より(1)

狭い線路だけで車両がいないナローの情景。
会場でこれらにカメラ向ける人が多かったようです。


頸城鉄道 明治村 1970年
 

花巻電鉄軌道線 松原駅 1964年


沼尻鉄道 内野-会津下館 1964年

以下は没にして出さなかったもの.

頸城鉄道 百閒町  1962年


仙北鉄道瀬峰駅 廃線になった築館線を築館行バスが走る.

『軽便讃歌13』

2024年9月28日 軽便祭プレイベントの講演にご来場ありがとうございました。

綿商会館4Fホールで開催された講演と、翌29日の軽便模型祭が終わりました。
プレイベントの講演「軽便讃歌13」では私の『地方私鉄めぐり 魅力のナロー情景』と
名取編集長の「1976年、第一回軽便祭の頃」でした。


今回は、当時の旅のポリシーやエピソードも交えつつの内容と、遠州鉄道奥山線の印象深かったナロー情景や西大寺の単端などを取上げました。スタートすると会場は真っ暗に、準備した駅名などのメモが読めない・・幾つか駅名が出てこないのには焦りました。

次は名取編集長の「1976年、第一回軽便祭の頃」で紹介場面です。
約300枚ほどの画面で後半は私が知らないトワイライトゾーンを追った時代が紹介され、長髪の若者たちが何故トロッコを追ったのか? あの時代のことが分りました。あの若者たちは今や60~70才前後でしょう。


翌日の軽便模型祭の賑わい.

2024年9月22日日曜日

地方にあった人々の活気(軌道線の賑わい)

昭和39年、夏の花巻軌道線は人々で賑わっていた。
消えゆくナロー路線ながら駅や列車に乗客が多く
日本はまだ子供や若者が多かった時代。
そんなある時代の賑わいを集めた情景につけた
タイトルを「地方にあった人々の活気」とした。
地方小鉄道の衰退はその後のマイカーブームだけではなかった。

「軌道線の賑わい」
花巻温泉郷へ向かう客で賑わう花巻駅ホーム。
スイッチバック駅西花巻の賑わい。
西公園駅を降りて道路を行く人々。
電車+客車2両が満員の朝の通勤列車。
夏休みの子供達で賑わう志度平温泉駅前の遊園地。
遊園地、温泉帰りの客で満員の列車。
終点西鉛温泉に降り立つ温泉客の賑わい。
 
撮影:1964.8.2

スイッチバック駅西花巻の賑わい.


西花巻と西公園間のSカーブを行く満員列車.


朝の通勤・通学時間帯は満員.1966.3.4


志度平温泉駅の賑わい.

終点西鉛温泉に降り立つ温泉客の賑わい.

2024年9月12日木曜日

第20回軽便鉄道模型祭プレイベント『軽便讃歌13』

毎年恒例のプレイベント(講演)の宣伝です。

期日:2024年9月28日(土)
・会場:綿商会館 4Fホール

・開場13:00・開演13:30

プレイベントの案内サイト
https://keibenfes.exblog.jp/242393978/

『地方私鉄めぐり 魅力のナロー情景』
今回は、遠州鉄道奥山線をはじめとする、軽便鉄道の殊更印象深かった情景を中心に、当時の旅のポリシーやエピソードも交えつつの内容です。


あれから50~60年眠っていたネガを取り出してプリントしてみると、当初の撮影ポリシーには無かった撮影対象が新鮮で、時を経て見る情景写真にはあの時代の生活感が溢れていた。




2024年9月1日日曜日

60年前の小さな旅

先日8月17日にビックサイトで開催したJAM クリニック「地方私鉄 失われた情景」で
参加者に配布された冊子です。


冊子「60年前の小さな旅」
関東鉄道竜ヶ崎線

私が竜ヶ崎線を知ったのはTMS 89号に紹介された地方私鉄めぐり「鹿島参宮鉄道竜ヶ崎線」だった。TMS 89号は1955年12月号で昭和30年、私はまだ小学生だった。
この記事から竜ヶ崎線にすっかり惚れ込みマイカメラで真っ先に訪問したのが7年後の昭和37年とその翌年。TMS記事で見た5両の古典二軸客車は一両となり客貨混合列車は消えていたが蒸機2両が健在で、記事にあった昭和30年頃の鹿島参宮鉄道の面影が至るところに残されていた。




東京近郊でこんな蒸機が牽く列車の光景をまだ見ることができた昭和37年。 列車はハフ15(片ボギー)荷物車を連結して、まるで客貨混合列車のようだった。1962.3.29

2024年8月30日金曜日

心に残る路線 その2 北陸鉄道能登線

 先日8月17日にビックサイトで開催したJAM クリニック「地方私鉄 失われた情景」より.





国土地理院の当時の空中写真から作成した滝駅のジオラマ図.

滝駅を発車すると目前に海が開け海岸すれすれの高さを走る. 
滝-柴垣間   撮影:1962.8.2

キハ5201(元国鉄41000を改造)片側バケット付.


夏の海岸線を行く生え抜きの雨宮製キハ5102+コハフ3001.


キハ5162(元三岐)+コハフ1502(2軸車).


海岸の岩場に近い最も高さ低いところを行く線路.


国鉄の小さな40000形より更に全長短い生え抜きの気動車キハ5001.どの気動車もバケットを備えていた.