先日の軽便祭りで展示されていたOナローの完成品。4.5万円
会場ではチラッと見ただけだったこの西大寺の単端キハ3。
翌日、写真を眺めていると、とても感じをよく捉えていてよく出来ている。
どうしても詳しく見たくなり、
北関東のお店(製造元)まで行ってきました。
1/48で車体主要サイズはスケール通りでした。
案内文章
2025年10月3日金曜日
西大寺単端の完成品
2025年9月30日火曜日
2025年9月27日土曜日
2025年9月25日木曜日
筑波鉄道 筑波北方
美しいツートンカラーに塗られた気動車。筑波の峰々を背に走り抜ける風景は、あまりにも日常風景に溶け込みすぎて、かつて私はその魅力に気づくことがなかった。
駅舎の佇まい、ローカル色豊かな設備、そして茨城の素朴な風土と自然。
筑波鉄道は、暮らしのすぐそばにあった。
けれど、その魅力は何十年という歳月が流れて、初めて感じられるようになった。
鉄路はすでに消え、残されたのは駅のホームや木立の痕跡、自転車道に姿を変えた廃線跡など。筑波北方に広がる沿線の風情は、今も変わってないのだろう。
真壁から筑波方面へ向かい常陸桃山を過ぎると、筑波山が背後に迫ってきて紫尾(しいお)に到着する。その先にあった木立や竹藪の脇をカーブする辺りが、最も好きな撮影ポイントであった。
2025年9月23日火曜日
雨上がりの金石街道(続)
金石線の画像をデジタル化したのは2011年頃でした。あれから10年後に再スキャンしたのがこの画像、ネガは劣化し斑点だらけで時間掛けてゴミとりしたものです。
1964年のモノクロネガは撮影後50年辺りまでは、まだ何も劣化してなく綺麗なネガだったことになります。
2025年9月11日木曜日
2025年9月8日月曜日
日本の社会の変わり目
この1964(昭和39)年の頃、大都市では既に車社会の到来が始まっていました。なんとか行き残ってきた地方私鉄もこの頃から急速に衰退して行く。この激変は一体何があったのか、私の中で漠然としていた高度成長時代の社会の変わり目と、地方私鉄の衰退を時系列に対比してみました。(軽便鉄道は地方私鉄衰退の事例として並べたものです)
これを見ると、私が地方私鉄を最も撮った時期1964(昭和39)年頃の日本は高度成長による社会の変わり目で、この年の東京オリンピック開催以降は高度成長のなかでも劇的な社会の変化で、車登録台数の急増や道路舗装率のデータからも爆発的な「車社会の到来」の時代であったと言えるでしょう。
地方へ撮影に出掛けた1962~1964年頃は大都市を除けば地方の道路はまだトラックやマイカーも少なく、地方私鉄には活気ある路線も見ることができました。それが1965(昭和40)年~に入ると沿線の道路整備も始まり車の姿が多くなってきて、それまでの地方私鉄の活気もあっという間に衰退→廃線へと向かったのでした。
1960年代の地方私鉄が様変わりして行く風景は、日本の社会の大きな変わり目に地方私鉄が翻弄されて行った時代であった。
2025年9月4日木曜日
朝の広島駅前
朝の路面電車は絶好の撮影チャンス.
駅で整列する習慣はまだ無かった昭和42年の日本.
今この駅前は大きく変わった.
2025年9月1日月曜日
西大寺鉄道の単端
2025年8月23日土曜日
2025年8月17日日曜日
多摩湖線 一橋学園

夕暮れ時の一橋学園駅.2010年1月
50年60年前のフィルムカメラ画像は路線名と年代で瞬時に出てくるのに、デジカメ画像は路線ごとに纏めていないので、日付だけが頼りとなる。
夕暮れが迫ると、静かな駅にふたたび人の流れが戻ってくる。
一日の仕事を終え、家路へと向かう安らぎの時間がある駅。
西武多摩湖線 一橋学園駅 2010年1月
2025年7月24日木曜日
JR日光駅前の今昔
1964(昭和39)年に廃止された、国鉄日光駅前のループ線。軌道線ならではの急カーブで駅前をぐるりと回るその線路は、楽しさがありとても気になる存在でした。青蛙、田辺両氏による当時の写真と、残されたループ線図とを照らし合わせて、その姿をたどってたのがみたのが2015年6月22日の投稿「日光軌道線 国鉄駅前のループ線」でした。
ちょうど東京オリンピックが開かれたあの年、観光都市・日光の表玄関に古びた路面電車がたむろしている姿は「みっともない」とされ、それが廃止の理由の一つになったとも言われています。しかし、今だったら・・・
1964年7月 撮影:田辺氏
真夏の朝、日光駅前に立つと、まず目に入るのが「日光ステーションホテル」。その朝のバイキングは、まるでここはどこかヨーロッパの観光都市にいるような錯覚に陥る。客のほとんどは外国人観光客。彼らの多くは、やがて駅前から発車する「世界遺産めぐりバス」に乗っていくのだろう。そのバスも、すぐ先の東武日光駅前で満杯になる。インバウンド観光の中心は、やはり日光東照宮や輪王寺など、世界遺産群をめぐる定番コースなのだろう。
もしこのJR駅前、そして東武駅前に、軽やかなライトレールが巡回していたら・・・駅と観光拠点を静かにつなぐ新たな足として。混雑するバス路線の代わりに、静かに街をなぞるように走るライトレール。観光の利便性も大きく変わるはずだ。
一方、JR日光駅前から出る「霧降高原行き」のバスは、乗客が数人ほど。町を抜け、静かな高原へと分け入り霧降の滝で降りると、そこにはインバウンドの喧噪はまるでない。風の音とウグイスの声、霧降はいまもなお、日光の“日本的な静けさ”を感じられる場所だった。
世界遺産が人を呼び、静けさが人を癒やす。そんな対照的な二つの顔を、夏の二日間で見せてくれた日光だった。
2025年7月16日水曜日
北勢線 西桑名駅 あれから60年
2025年7月10日木曜日
小坂鉄道 軽便の面影は消えていた大館駅
花岡行と小坂行の発車案内が表示された大館駅. 1966.03.0
昭和41年早春、奥羽本線の大館駅に降り立った。雪の残るホームには、ありふれたキハと機関車が発着を繰り返していた。かつて鉱山を結んで走った小坂鉄道も、今やナローゲージの面影を失い、1067mmへと改軌されていた。改軌は昭和37年10月のこと。乗車券には「同和鉱業小坂鉄道線」と記されていた。
大館からは小坂線と支線の花岡線が分岐していたが、構内の風景はどこか味気なかった。軽便鉄道らしい車両や線路の表情は、もうそこにはなかった。
書物によると小坂のナロー時代は、軽便とは思えぬほど重厚で威風堂々としていた。その時代の客車をこの数年前に越後交通栃尾線で見たことがある。今、改めてその写真を見ると、冬景色の大館駅が思い出された。
ナローが改軌されても、車両が変わっても、あの大館駅の小坂鉄道には時代を越える風格があった気がする。2025年6月30日月曜日
花巻電鉄 西鉛温泉「愛燐館」
花巻電鉄軌道線の終点、西鉛温泉。そこにあったのは、駅舎もなくただホームが一つあるだけの、静かな終着駅だった。すぐ脇の砂利道を埃舞い上げて一台のトラックが通り過ぎていく。駅前には一台のバスが停まっており、待合室の看板に「愛燐館」の名が見える。おそらく、このバスで温泉客が宿へと向かうのだろう。
あれから61年、この「愛燐館」に先日宿泊した方から数日前の宿の写真が届いた。かつての素朴な風景から今の立派な旅館まで年月が流れても、この地の風景は変わらず旅人を迎えてくれているのだろう。
以下のカラー写真 撮影:赤鬼さん