案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2025年10月3日金曜日

西大寺単端の完成品

先日の軽便祭りで展示されていたOナローの完成品。4.5万円
会場ではチラッと見ただけだったこの西大寺の単端キハ3。

翌日、写真を眺めていると、とても感じをよく捉えていてよく出来ている。
どうしても詳しく見たくなり、
北関東のお店(製造元)まで行ってきました。
1/48で車体主要サイズはスケール通りでした。

ペアーハンズ製のOナロー・シリーズ.



竜舞


2025年9月30日火曜日

先日の軽便祭りから

軽便祭で、素晴らしい西大寺単端のOナロー1/48の作品を拝見しました。
西大寺のキハ1、2を製作する方は大変少ないと思います。

「軽便讃歌13」表紙の巨大な単端キハ8と顔がよく似ていますが、
キハ1、2はお馴染みの箱型単端キハ3、4、5と同一サイズです。
 


表紙キハ8+キハ4+ハボ4両



キハ2


キハ1


2025年9月27日土曜日

軽便讃歌13の発売開始

昨年講演した講演録が明日9/28の軽便祭で発売開始されます。
講演と講演録では、皆様に多大なご協力を戴き誠にありがとうございました。

【南軽出版のアナウンスより】
南軽出版局の定番・『軽便讃歌』本は予定通り9/28軽便祭で発売開始、追って各特約店様(書泉、旭屋なんばCity、イモン、エコー等)にも配本いたします。書題は『軽便讃歌13』、内容は昨年の風間克美さんと名取紀之さんの講演録となります。
今回は価格が例年よりUPの税別1,300円となりますが、ひとえに怒濤の増頁(72p)によるものでして、そのぶん内容も濃密です!




2025年9月25日木曜日

筑波鉄道 筑波北方

美しいツートンカラーに塗られた気動車。筑波の峰々を背に走り抜ける風景は、あまりにも日常風景に溶け込みすぎて、かつて私はその魅力に気づくことがなかった。

駅舎の佇まい、ローカル色豊かな設備、そして茨城の素朴な風土と自然。
筑波鉄道は、暮らしのすぐそばにあった。
けれど、その魅力は何十年という歳月が流れて、初めて感じられるようになった。

鉄路はすでに消え、残されたのは駅のホームや木立の痕跡、自転車道に姿を変えた廃線跡など。筑波北方に広がる沿線の風情は、今も変わってないのだろう。



紫尾(しいお) - 酒寄  1987.3.28
真壁から筑波方面へ向かい常陸桃山を過ぎると、筑波山が背後に迫ってきて紫尾(しいお)に到着する。その先にあった木立や竹藪の脇をカーブする辺りが、最も好きな撮影ポイントであった。

2025年9月23日火曜日

雨上がりの金石街道(続)

 


入替作業が済むと貨物列車は中橋へ向けて走り出した.

金石線の画像をデジタル化したのは2011年頃でした。あれから10年後に再スキャンしたのがこの画像、ネガは劣化し斑点だらけで時間掛けてゴミとりしたものです。
1964年のモノクロネガは撮影後50年辺りまでは、まだ何も劣化してなく綺麗なネガだったことになります。


2025年9月11日木曜日

雨上がりの金石街道

1964年はマイカー時代幕開け直前で、地方の道路にまだクルマは少なかった。
北陸鉄道金石線 1964.12.31


金沢郊外の金石街道にクルマは殆ど走っていない.
12月の小雨に濡れた金石街道を、電車が貨車を連ねて進んでいく。濡れた路面に車輪の音が響き、パンタグラフが冬空をかすめる。その姿は、港と街を結ぶ暮らしの息づかいそのものだった。
やがてトラック輸送の時代が訪れ、この光景は消えていった。だが、雨にきらめく金石街道を行く貨物列車の記憶は今も鮮やかに残っている。

2025年9月8日月曜日

日本の社会の変わり目

クルマ社会の到来を掲載したのは10年以上前の2013年8月12日でした。
その時の「日本の社会の変わり目」の再編集版です。

この1964(昭和39)年の頃、大都市では既に車社会の到来が始まっていました。なんとか行き残ってきた地方私鉄もこの頃から急速に衰退して行く。この激変は一体何があったのか、私の中で漠然としていた高度成長時代の社会の変わり目と、地方私鉄の衰退を時系列に対比してみました。(軽便鉄道は地方私鉄衰退の事例として並べたものです)

これを見ると、私が地方私鉄を最も撮った時期1964(昭和39)年頃の日本は高度成長による社会の変わり目で、この年の東京オリンピック開催以降は高度成長のなかでも劇的な社会の変化で、車登録台数の急増や道路舗装率のデータからも爆発的な「車社会の到来」の時代であったと言えるでしょう。

地方へ撮影に出掛けた1962~1964年頃は大都市を除けば地方の道路はまだトラックやマイカーも少なく、地方私鉄には活気ある路線も見ることができました。それが1965(昭和40)年~に入ると沿線の道路整備も始まり車の姿が多くなってきて、それまでの地方私鉄の活気もあっという間に衰退→廃線へと向かったのでした。
1960年代の地方私鉄が様変わりして行く風景は、日本の社会の大きな変わり目に地方私鉄が翻弄されて行った時代であった。




1963年の新宿西口 青梅街道.


1967年第14回東京モーターショウ.
前年に続き展示された初代サニー1000
1966年にスタートしたマイカー時代は1967年秋の東京モーターショウで更に身近なものに.手の届かぬ存在のマイカーだったが、身近な人がすでにサニー1000を購入していた.

銀座4丁目の光景. 三越が改装中 1967.11.26
1966(昭和41)年に大衆車サニー、カローラが発売され、晴海で開催された東京モーターショーは大変な熱気であった。この銀座四丁目の晴海通りはそんなマイカーが身近な存在となってきた車社会到来の時代が思い起こされる。街行く人々に夢と希望が溢れ、昭和40年代の日本は経済大国への道をまっしぐらに進んでいた。


参考図書: 「高度成長-昭和が燃えたもう一つの戦争」 保阪正康 著 朝日新聞出版

2025年9月4日木曜日

朝の広島駅前

 朝の路面電車は絶好の撮影チャンス.
駅で整列する習慣はまだ無かった昭和42年の日本.


朝の広島駅前は通勤・通学客で活気に溢れ、
魅力ある単車が続々と登場してきた。
1967.03.07


如何にも広島の個性溢れる150型.江波行
最も大きい単車.



午後になると太陽光線のせいか
朝の駅前風景と雰囲気が異なる.
今この駅前は大きく変わった.


2025年9月1日月曜日

西大寺鉄道の単端

西大寺 会陽(はだか祭)の日に車両総動員された4編成。 滅多に動かないバケモノ単端キハ10(最下段の先頭)も動員された。1962(昭37)年廃線

昨年秋の講演が本「軽便讃歌13」になって9月末の軽便祭で発売されます。





2025年8月23日土曜日

京都市電 電停近衛通

1969年の京都市電。背後に京大吉田寮が写る写真を提供したところ「京大吉田寮百年物語」が送られてきました。大変立派な百年物語です。
 


 背後に京大吉田寮の建物.電停近衛通.1969.1.2

京大吉田寮百年物語.

2025年8月17日日曜日

多摩湖線 一橋学園

 


夕暮れ時の一橋学園駅.2010年1月

今日はこの画像を探すのに大変に時間が掛かった。2010年はブログを始めた頃で多摩湖線ブログのタイトル画にしたことがある。コンデジではなくマイクロフォーサーズで撮っていた時代で、あれから早や15年が過ぎた。
50年60年前のフィルムカメラ画像は路線名と年代で瞬時に出てくるのに、デジカメ画像は路線ごとに纏めていないので、日付だけが頼りとなる。
今回も日付が分らなかった。

ホッとする駅。
夕暮れが迫ると、静かな駅にふたたび人の流れが戻ってくる。
電車を降り、構内の踏切を渡って改札を出ると、すぐそこに商店街の灯りが待っている。
一日の仕事を終え、家路へと向かう安らぎの時間がある駅。
西武多摩湖線 一橋学園駅 2010年1月




2025年7月24日木曜日

JR日光駅前の今昔

 1964(昭和39)年に廃止された、国鉄日光駅前のループ線。軌道線ならではの急カーブで駅前をぐるりと回るその線路は、楽しさがありとても気になる存在でした。青蛙、田辺両氏による当時の写真と、残されたループ線図とを照らし合わせて、その姿をたどってたのがみたのが2015年6月22日の投稿「日光軌道線 国鉄駅前のループ線」でした。

ちょうど東京オリンピックが開かれたあの年、観光都市・日光の表玄関に古びた路面電車がたむろしている姿は「みっともない」とされ、それが廃止の理由の一つになったとも言われています。しかし、今だったら・・・


今再びこの現場に立って想いを巡らしてみました。


JR日光駅と駅前 2025.7.22

62年前の国鉄日光駅と日光軌道線.1963年7月 撮影:青蛙氏
現在のバスと同様にここで国鉄客を乗せ次の東武日光駅で東武の客を乗せていた.


JR日光駅前と東武日光駅に向かう道. 

上の写真の61年前で駅前に並ぶ商店.この角に今ステーションホテルが建っている.
1964年7月 撮影:田辺氏


JR日光駅から見たステーションホテル.


霧降の滝.2025.7.23

真夏の朝、日光駅前に立つと、まず目に入るのが「日光ステーションホテル」。その朝のバイキングは、まるでここはどこかヨーロッパの観光都市にいるような錯覚に陥る。客のほとんどは外国人観光客。彼らの多くは、やがて駅前から発車する「世界遺産めぐりバス」に乗っていくのだろう。そのバスも、すぐ先の東武日光駅前で満杯になる。インバウンド観光の中心は、やはり日光東照宮や輪王寺など、世界遺産群をめぐる定番コースなのだろう。

もしこのJR駅前、そして東武駅前に、軽やかなライトレールが巡回していたら・・・駅と観光拠点を静かにつなぐ新たな足として。混雑するバス路線の代わりに、静かに街をなぞるように走るライトレール。観光の利便性も大きく変わるはずだ。

一方、JR日光駅前から出る「霧降高原行き」のバスは、乗客が数人ほど。町を抜け、静かな高原へと分け入り霧降の滝で降りると、そこにはインバウンドの喧噪はまるでない。風の音とウグイスの声、霧降はいまもなお、日光の“日本的な静けさ”を感じられる場所だった。

世界遺産が人を呼び、静けさが人を癒やす。そんな対照的な二つの顔を、夏の二日間で見せてくれた日光だった。


2025年7月16日水曜日

北勢線 西桑名駅 あれから60年


カラー撮影:2025.7.16

近鉄、JRと並ぶナロー北勢線の線路.桑名
三交カラーで今も活躍している旧200系3連+モハ.

200系の美しい原形 モ202+サ+モ201.1965.8.5
1971年に電装解除された


西桑名駅. 1965.8.5


西桑名駅構内.1965.8.5


現在の西桑名駅の朝.2025.7.16


ナローとしては立派なレール.西桑名駅


立派な40kgレール。枕木の長さが違うのはナロー用と3'6''用が混ざっているのでしょう.



西桑名駅.


終点 阿下喜の風景.


9時過ぎた日中の阿下喜発は1時間に1本しかない.


2025年7月10日木曜日

小坂鉄道 軽便の面影は消えていた大館駅

 

花岡行と小坂行の発車案内が表示された大館駅. 1966.03.0





栃尾線に転じたホハ30 (元小坂鉄道のハ10)。 同時に栃尾へやって来た他の5両とは外観が異なる。 栃尾鉄道 悠久山 1964.3.22

昭和41年早春、奥羽本線の大館駅に降り立った。雪の残るホームには、ありふれたキハと機関車が発着を繰り返していた。かつて鉱山を結んで走った小坂鉄道も、今やナローゲージの面影を失い、1067mmへと改軌されていた。改軌は昭和37年10月のこと。乗車券には「同和鉱業小坂鉄道線」と記されていた。

大館からは小坂線と支線の花岡線が分岐していたが、構内の風景はどこか味気なかった。軽便鉄道らしい車両や線路の表情は、もうそこにはなかった。

書物によると小坂のナロー時代は、軽便とは思えぬほど重厚で威風堂々としていた。その時代の客車をこの数年前に越後交通栃尾線で見たことがある。今、改めてその写真を見ると、冬景色の大館駅が思い出された。

ナローが改軌されても、車両が変わっても、あの大館駅の小坂鉄道には時代を越える風格があった気がする。

2025年6月30日月曜日

花巻電鉄 西鉛温泉「愛燐館」

2015年12月13日投稿記事のリニューアルです。

花巻電鉄軌道線の終点、西鉛温泉。そこにあったのは、駅舎もなくただホームが一つあるだけの、静かな終着駅だった。すぐ脇の砂利道を埃舞い上げて一台のトラックが通り過ぎていく。駅前には一台のバスが停まっており、待合室の看板に「愛燐館」の名が見える。おそらく、このバスで温泉客が宿へと向かうのだろう。

あれから61年、この「愛燐館」に先日宿泊した方から数日前の宿の写真が届いた。かつての素朴な風景から今の立派な旅館まで年月が流れても、この地の風景は変わらず旅人を迎えてくれているのだろう。

1964.8.2

前方に愛燐館の看板が見える、バスが温泉客をお出迎え.


西鉛温泉駅.


電柱にある駅名と時刻表.

鉛温泉側から見た線路の先が終着駅.山あいを流れる豊沢川に沿って温泉宿が点在している.駅を降りて温泉へ向かって道路を歩いている人の姿が見え、宿は近そうだ.

以下のカラー写真 撮影:赤鬼さん

バス停新鉛温泉から見た現在の愛燐館.


立派な愛燐館の建物.


愛燐館の灯篭と旧軌道線跡.左へ下ったところに旧鉛温泉駅(西鉛温泉の1駅手前)があった。