案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2020年10月3日土曜日

東武鉄道 熊谷(妻沼)線 リニューアル

変色した古い切符の日付を見ると昭和56(1981)年7月18日。
熊谷線を訪問したのは驚くことに40年も昔のことであった。
あの日のことが鮮明に記憶が残っていて、とてもそんな昔には思えない。
1980年は私の会社の仕事がピークを迎え、その翌年1981年の夏はほっと一息ついたのか
クルマで一人ふらっと立ち寄った熊谷線であった。

1981.7.18


廃線が近い妻沼駅。駅前には廃線(1983年6月)ムードが漂っていた。
列車が到着するまで駅前の喫茶店で一服していると夏休みの高校生達が店内にたむろしていた。クルマを使って鉄道沿線を撮ったのは上毛電鉄、熊谷線、筑波鉄道、山形交通三山線くらいだったか。

jha141さんからコメント戴いた妻沼線の思い出を紹介します。

全部懐かしい 幼児期から小学校に入る前まで熊谷市石原に住んで居ました 目の前が土手で上を妻沼線が走ってました(後に東部熊谷線と知る) 大きく成ったら妻沼に行きたいと思い時が過ぎ数年前廃線に成った事を知り真夏の暑い日に熊谷に行きバスで妻沼まで電車(実際はディーゼルカー)に乗る事は出葉ませんでしたが記念館で記帳し写真を撮りその後国宝の聖天山も見学歩いて石原まで土手の雰囲気は残って居ました、鉄橋の上で車掌に追いかけられた場所は解りませんでした。

鉄橋の思い出
土手を妻沼電車が走って居ました単線だったので電車が行ってしまうと子供たちの遊び場でした線路に耳を当てて「電車が来たよーー」で一斉に土手の下に 電車が行ってしまえば暫く来ないのでまた遊び場でした。下に川が流れた鉄橋の上をみんなで渡って居る時電車が近づき急停車車掌に追いかけられた記憶が有り。当時は一車両だったと記憶  と言っても六十数年前ですから正確では有りません。

日中で乗客も少ない妻沼駅。

模型的なこじんまりとした妻沼車庫。

庫内の気動車整備風景。

車庫の周辺設備 給油所。

妻沼駅手前の備前渠用水と思われる。

どこまでも一直線の線路を熊谷へ向かう。

8 件のコメント:

Cedar さんのコメント...

駅前広場に佇む女性の後ろ姿~構図ばっちり決まってますね!

esehoku さんのコメント...

画像1枚目、後ろ姿の女性の髪型やファッションに80年代を感じます。当時付き合っていた彼女がこんな感じでしたw。
左端に写っているクルマは、一見FF・実はFRのファミリアですね。小型車もまだまだFRが多かった時代でした。
私も買ったばかりの初代アコード(FF!)で、営業運転最終日(58年5月31日)の熊谷線をあちこち撮影しました。
いつもは閑散としているローカル線でしたが、この日ばかりはあちこちで人の群れが絶えず、名残り乗車をしようにも叶わない状態でしたから、せめて沿線風景を撮っておこうと奔走しました。
夜になり、最終列車が妻沼駅に入る時には大きな拍手が起きていましたが、それも終わると急に人の波も引いてしまい、祭りの後の寂しさを覚えました。
駅にはタクシーを呼ぶ専用電話がありましたが、なんとハンドルを回して交換手を呼ぶタイプの物でした!(当時までそのように使われていたかどうかは定かではありませんが)。駅舎内のそうした道具が次々と撤去されていき、後にはがらんとした駅の脱け殻が残りました。その妻沼駅舎もしばらくは残されていましたが、今は跡形もありません。

katsu さんのコメント...

Cedarさん
もし駅前に人がいなかったらつまらぬ写真になってしまうところ、
よいタイミングで女性が入って時代を感じさせてくれました。
この時代は前年まで山口百恵が活躍した時代だったのですね。
女性のファッションも山口百恵ふうだったのかも知れません。

katsu さんのコメント...

esehokuさん
女性の服装や髪型はとても時代を表しますね。
当時の若い女性の多くはきっとこんなファッションだったのでしょう。
esehokuさんのよき時代だったようですね。

最終日に行かれたとは、それは思い出深い熊谷線でしたね。
私は撮っている時は熊谷線に何も感じなかったけど、
古い電話などがあったお話を聞くと駅舎や車庫などに
カメラを向け記録しておく貴重なものが沢山あったことでしょう。

伊豆之国 さんのコメント...

7年前の夏、かつての東武熊谷線の終点があった妻沼の「聖天様」にお参りしたことは、以前に書き込んだことがありましたが、熊谷から妻沼までバスが1時間に3-4本、熊谷線がついに渡れなかった利根川を越えて当初の目的地であった太田まで行くバスも1時間に1本程度あった、ということには、「北関東は自動車王国で、バスもろくに走っていない」という先入観があった中にあって、「1両だけのディーゼル車が1時間に1本あるかないか」というあの熊谷線の沿線を通るバス路線が「こんなに繁盛していたのか」と驚きを隠せなかったものでした。
熊谷線は、当初軍事目的で敷かれたというその由来から、集落を離れた場所を一直線に通り妻沼の駅も町の中心から遠い場所にできたこと、当初の目的通り利根川に橋を架けると、太田市をはじめ群馬県南東部の客が熊谷から高崎線に出てしまい、東武にとってはかえって「自分で自分の首を絞める」ことになってしまうのを恐れて、「未完成の状態でそのまま放置した」というらしいとの噂はだいぶ前に知ったのですが、現在も沿線を走るバスの繁盛ぶりを思うと、なんだか「惜しいことをした、もったいないことだった…」とも感じたのでした。
夏の暑さで有名な熊谷のこと、冷房もなく窓を開けっぱなしに走っていた当時のディーゼル車、その頃は今ほど暑くはなく、またその頃の人はまだ暑さに耐えられる「強さ」も今の人よりはあったのでしょうが、それでもさすがに乗客は大変な我慢を強いられていたように思えます。

jha141 さんのコメント...

再投稿有難う御座います。
当時の事が次々と思い出されます、付近の川で魚を捕まえたり祖母とイナゴを取り佃煮を作って貰ったり肥溜めに落ちたり 昨日の事の様です 一度も乗る事が出来なかった妻沼線そして 幼児の頃凄く遠くに有り、とても良い所だと思った妻沼は、ほんの隣町で歩いても行ける所でした。
又 少し時間を置き妻沼展示館や聖天山を見に行きたいと思って居ます。

katsu さんのコメント...

伊豆乃国さん
今や熊谷~太田間のバスは朝日バスとシャトルバスで
データイム1時間あたり、途中折り返し含めて7~8本!とのこと。
何と何と大変な本数なんですね。
もし熊谷線が川向うに繋げて現在まできたなら
新幹線熊谷駅と接続し大変な路線になりますね。

katsu さんのコメント...

iha141さん
のどかで沿線に人家も少なかった熊谷線も新幹線熊谷駅の開設で、
もし~していたらの話題で大変に関心が高いですね。