案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2020年10月17日土曜日

大聖寺川を渡り山代へ

鉄道模型趣味(TMS) 11月号の"地方私鉄 失われた情景"第17回は「大聖寺川を渡り山代へ」北陸鉄道加南線です。1964年、木立を背に田園風景の中を温泉通いの電車が走っていた情景はまるで模型のようであった。




1966年航空写真。

一面田んぼだったところに今では豪華な温泉施設が並び、昔の面影残すは神社の木立くらいか。

1964年の一面の田んぼ。

大聖寺川を渡る。

土手を行く元温泉電軌モハ1800形

12 件のコメント:

Cedar さんのコメント...

北鉄加南線間に合っていない線区です。父が温泉旅行ついてに撮ってきた写真を羨ましく見たものです。
山代、山中温泉は3年くらい前に亡き母と行きましたが、寂れた感じが気になりましたね。

katsu さんのコメント...

Cedarさん
昔は会社の団体で華やかな温泉地だったようですね。
3年前の山代、山中温泉は寂れた感じでしたか。
でも、いろんな情報から知る今は大変に豪華な宿に様変わりのようですね。
団体客が減り個人客を豪華にもてなす温泉地という感じがします。
Googleで現状を外から見ると昔には考えられない豪華な温泉他を感じます。
さらにコロナで様変わりして行くのでしょう。

esehoku さんのコメント...

画像の築堤から大堰宮鉄橋を渡る電車は、河南から山代の街に通じる道路(確か県道11号線)からよく見え、廃線後も面影をよく残していました。近年、高規格道路ができてから風景が一変し、当時を偲ぶにも脳内補正を余儀なくされます。
今は歩道となって残る築堤も一部切り崩されています。
当時は河南の駅付近に県道364号線を斜めに渡る踏切がありましたが、そこから大堰宮鉄橋に向かって大きく右カーブする築堤が続いていました。現在、踏切から50mほど進んだ辺りで築堤は無くなっていて、廃線跡をわかりにくくしています。
加南線の廃線から来年でちょうど50年ですから、いろいろと風化していくのも当然ですね。
TMS誌11月号、楽しみに読ませていただきたいと思います。

代打・山本 さんのコメント...

線路跡に面した巨大ホテルはバブル崩壊のあおりを受けて8年前から休業していました。北陸新幹線の金沢開業で観光客が戻り、一昨年リニューアルして再オープンしたものの、コロナの影響で観光業界全体が苦境に立たされています。GoToトラベルで賑わいを取り戻すことが期待されていた矢先、温泉街に熊が出没して負傷者が出てしまい、さらにはその熊が加賀温泉駅前の商業施設に入り込んで臨時休業になり、全国ニュースにも取り上げられていました。コロナも熊も、もう勘弁してほしいです。

katsu さんのコメント...

esehokuさん
空からみると河南から右へカーブして鉄橋へ向かう線路跡(道路)が途切れていますね。
鉄橋を渡る線路跡はクルマ通行禁止で遊歩道ですかね。
大堰宮脇の木立の中を曲がりくねって進む道に何か惹かれます。
春は満開の桜並木と神社の木立の組合せは絶妙だと思います。
ところがその雰囲気を壊してしまうのが目の前の巨大温泉施設だと思います。

katsu さんのコメント...

代打・山本さん
驚きました、あの巨大ホテルはバブルの遺産でしたか。
リニューアルして再オープンしたその後もあまりにも不運が続き大変な打撃ですね。
賑わい取り戻すところにクマの出現とは余りにも不運ですね。
早く賑わいを取りもどせるよう祈ります。

それにしてもあの巨大ホテルは山代温泉に似合わない気がします。
温泉地と加南線が栄えた頃の北陸温泉郷は
今と違って需給バランスがとれたよき時代だったわけですね。

石鉄 さんのコメント...

あの巨大ホテルは、能登和倉温泉の某有名旅館と双璧をなすものでした。
最盛期の頃泊まったことがあります。
一人4万円二人で8万円でした。高かったです。

北陸鉄道加南線については、平成18年4月に代打・山本さんの案内で起点の大聖寺から山中まで途中ぬかるみに足を取られながら廃線跡を辿ったのが懐かしく思い出されます。

廃線からもう50年近くですか、月日の経つのは早いものです。

katsu さんのコメント...

石鉄さん
そんな豪華な温泉ホテルでしたか。
調べてみたら2018年12月に「みやびの宿 加賀百万石」として生まれ変わった
2万坪の豪華な温泉ホテル。
50年前の一面の田園風景とあまりにも不釣り合いな感じがします。

esehoku さんのコメント...

連投すみません。
「百万石」さん自体は、加南線の現役当時にもあった筈で、画像3枚目の66年版航空写真と、その下の画像にも写っていますが、何かはわからないのですが、丸いドーム型の屋根が写っているのがわかります。
あれ、確か百万石さんの建物のはずです(間違えていたらすみません)。
当時の鉄ピク誌のレポートでも「山代の駅を出ると、『ホテル百万石の間を抜けて』鉄橋を渡ると左にカーブして河南に…」といった記載がありました。

当時の温泉旅館全盛の頃は、社員旅行の団体客が大広間で宴会、その後はコンパニオンを呼んで…という、今となっては如何にもオ◯ジの楽しみに応える場だったと聞いています(後年、それ以外の客が嫌がり、また、社員旅行の衰退と併せて客が減り、今日の寂れように繋がったとも。山代の街中でも、お城か御殿のような豪華ホテルが廃墟となっていました)。
故に、温泉旅館全盛時代のホテルは、先述の理由から、果たして鄙びた風情だけではなかったと思うのですが…ただ、航空写真でもわかる通り、社員旅行の衰退後は、今風のリゾート(ずれた感覚のリゾート風も含めて)に脱皮するしかなく、建物や設備が派手派手しい物になっていったのは確かだと思います。
この頃は少し、本来あるべき温泉情緒の場として変わってきた印象もあります。

鉄道の話とずれてしまいすみません。また、当時は子供でしたから、「聞いた話」も自らが直接見て知ったわけではありませんので、事実誤認があったら申し訳ないのですが、加賀四湯の観光は決して、鄙びた風情の温泉情緒だけで栄えてきたわけではなかったと思います(本当は、鄙びた風情が守られていたら何よりだったとは思いますが)。
温泉客が浴衣がけで乗ったとかいう加南線にも、ともすると「似つかわしくない」物と共存していたのかな…と、今になって想像を巡らせています。

katsu さんのコメント...

esehokuさん
よそ者には分からない情報をありがとうございます。
私も知りたいと思っていた新旧航空写真に写っていたあの「丸いもの」
航空写真(1966年)で田んぼの中にポツンと写っていた丸が現在の建物敷地内に写っていますね。
今行けば見れるのでしょうけどあれは一体何なのか不思議です。

1964年に私が撮ったこの田園風景の写真1点(TMS誌と1コマ違い)を追加しておきました。
どう見ても当時ここに「百万石」があったとは思えません。
航空写真はその2年後でありその2年間に百万石が建てられたのかも知れませんが。

「百万石」は全盛期からバブル、廃墟、リゾート風、リニューアル、そしてコロナと
大変な変遷があった訳ですね。
昔の北陸温泉郷の鄙びた風情は、鉄道撮影でまず泊まることがなかった私の勝手な想像です。


代打・山本 さんのコメント...

「大聖寺川を渡る」の画像で奥から2本目だけ橋脚の形が違うのは1958(昭和33)年7月の豪雨で流失して再建されたためで、それ以外の部分も石積みの橋脚がコンクリートで補強されています。見るからに華奢な鉄橋ですが、大正時代に開業した当時の木造単車にはこれで十分だったのでしょう。

katsu さんのコメント...

代打・山本さん
橋脚には全く気がつきませんでした。
言われてみてよく見ると新発見があるものですね。
鉄橋一つとっても味わい深い加南線。
この区間(大聖寺川を渡って山代へ)を模型で再現したら素晴らしいでしょう。