案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2020年6月6日土曜日

ある日の尾小屋鉄道

1970年11月の尾小屋SL5号機の運転会の記録を調べていたら、当時の尾小屋鉄道のこんな日常記録がありました。

尾小屋の5号機運転会の前日11月2日18:08に小松駅に到着。新小松駅で東京から来ている2人と合流。尾小屋行きのDLが牽く3両編成の軽便列車は夕方のラッシュ時で金沢あたりからの務め帰りなのか都会的な女性もたくさん乗っていた。
軽便のオープンデッキも鈴なりで若い人の楽しそうな会話がはずんでいる。

この鉄道の沿線は夜ともなれば暗闇で深い山間へ入っていく感じで民家の灯りなど全く見えず、どこを見ても暗闇であった。昼間と違って夜の軽便は寂しく物悲しいムードであった。一人二人と小さな停留場の暗闇に乗客が消え尾小屋に着く頃には車内もガラガラになって来た。

ということでこの時の写真が一枚もないのが残念です。
オープンデッキも鈴なりから2軸客車ハフ1形が連結されていたのかも知れません。

観音下~倉谷口 1970.11.3
SL運転会当日のDC121

運転会前夜の尾小屋駅にいた5号機とハフ1と2そしてホハフ2。  1970.11.2

4 件のコメント:

にぶろく さんのコメント...

詳しい説明ありがとうございました。
しつこい様ですみませんが、
前記事の尾小屋構内に
ホハフ2が見当たりません。
DC121が牽引していたのは3連だったはず。
キハ1が連れて帰ったのでしょうか?

katsu さんのコメント...

にぶろくさん
尾小屋側にホハフ2を連結した3両編成の客車はこの日何回か往復して、
夕方には新小松の北陸鉱山荷扱所の脇で休んでいました。

尾小屋駅構内にいた2両はホハ5+ホハ7で、上記のホハフ2含む3両とは違う編成のようです。

かたおか さんのコメント...

風間さんは前日から乗り込んでおられたんですね。私は夜行で早朝に着いたのですが、尾小屋には既にフォトラン用の編成
(尾小屋方)ト+ト+ワフ3+ハフ2+ハフ1(新小松方)が停まっていました。
ですから、風間さんが前夜に乗車された列車にハフが繋がれていたことは、間違いないでしょうね。
その他に、早朝にはホハフ2+ホハフ7?も隣の線に置いてありました。

にぶろくさんのコメントにあるホハフ2は、午前中に単行でやってきたキハ3が牽いて尾小屋を出ていく写真がありました。そいつが新小松に戻ってから3両編成になってDC121牽引で往復したんじゃないかな?
前記事の写真で、DCがハフ2輌を牽いているように見えるのは、撮影用か何かの事情で、いちばん右の側線に移動してフォトラン用編成の前に停めただけで実際には走っていないはず。他の写真と見比べてみると、風間さんのコメント通り、DCとNo5の牽いた列車は固定編成で往復したんだと思います。

この日、客車の連結・開放があったのは、キハ1・2・3だけではないかしら?
私と友人の写真を改めて眺めてみたところでは、そんな気がします。

katsu さんのコメント...

かたおか さん
あの11月3日は行かれていたのでしたか。
詳細な情報ありがとうございます。
前夜の尾小屋駅の写真を追加しましたが、確かに尾小屋駅に(尾小屋側)ハフ2+ハフ1が写っていました。
その隣にホハフ2がいたので、かたおかさんが翌朝に見たホハフ2+ホハフ?は前夜に尾小屋駅にいたようです。
日中、DC121に牽かれて往復していた3両編成の客車はホハフ2含む3両だったようですね。
ホハフ7、8やホハフ3などは鋼体化されて外観がすっかり変わってしまい判別にやっかいな客車ですね。