案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2018年4月9日月曜日

昭和41年3月 早朝の大館から弘前へ

うす暗い大館駅を6:32に青森行鈍行列車が発車した。 秋田・青森の県境矢立峠を補機をつけて越え、弘前まで1時20分ほど。朝の車内の殆どは弘前へ通う高校生達で通学列車であった。山並みが去り勾配を下ると津軽平野が開け遥かかなたに白く光る岩木山が見え、美しい光景だ! いかにも津軽へやって来たという感じがした。到着した弘前の駅は朝の勤客・通学客で活気を帯びていた。


早朝でまだうす暗い大館駅、奥羽本線青森行き鈍行列車が発車する。1966.03.03

昭和41年3月、朝の通学列車が高校生で賑わっていたのは、そうか、団塊世代の第一陣がこの春卒業し、団塊世代の二陣三陣が高校在学していた時代であった。この頃、溢れんばかりの朝の高校生たちを各地で見たのは、ちょうど高校の生徒数がピークの時代であったというわけだ。 

C6130

  弘南鉄道 モハ2250の編成。弘前 1966.03.03

7時50分、列車は待望の弘前駅に到着した。前から来たかった文化の都弘前。列車から高校生や通勤者がどっと降り駅のホームは活気に溢れていた。反対側一番奥のホームでは弘南鉄道の電車が頻繁に発着していた。この翌々日あたりに、仲間の一人がまた矢立峠越えを撮りに奥羽本線に舞い戻ってきたのを知ったのは最近であった。

この日の大館発鈍行列車の峠越えの旅日記を読み返してみた。
しばらく田んぼの平地を走ると真っ白い蒸気を吐きながら列車はやがて上り勾配へ向かった。陣馬から秋田・青森県境の山並みを越え津軽湯沢、碇ヶ関といった辺りは雄大ではないが川に沿って走る絵になりそうな風景であった。しばらくの間補機がつく。交換の貨物列車もどれも補機がついていたようだ。仲間の田辺さんはこの辺りをすっかり気に入って、最終日(翌日から各自単独行動であった)の一日をここにかける決意をしたようだ。
50年後、この峠越えの写真が田辺さんのネガに残っていたのを見つけた。

碇ヶ関  撮影:田辺多知夫 1966年3月
 補機 碇ヶ関
こんな風景を行く蒸機列車で高校生たちが弘前まで通学していた。車内のクロスシートでは仲良しの女学生たちが楽し気な会話でふざけ合っているような、何とも微笑ましい光景があった。こんな団塊世代も今や70に近い。

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