私が北陸鉄道金沢周辺を訪問したのは1964(昭和39)年12月であったが、田辺さんはその1年前の訪問であった。金沢市内線で犀川の橋を渡るとその先に石川総線の「のまち」があって、北陸鉄道の本線なのに物凄い世界があった。その後、電車はあっという間に入れ代わってしまったのでしょう。
撮影:1963.07.13 田辺多知夫
石川線の野町駅で、この頃は市内線がここまで来ていた。
駅が乗客で賑わっていて活気があった時代。
野町駅の先に白菊町へと延びていた線路とED201
石川線のモハ3002準急白山下行で、当時は白山下まで線路が延びていた.
電車は乗客でいっぱいです。
くたびれた電車モハ5104
24 件のコメント:
凄い画像が出て来ました!最初のカットは
白菊町行のようです。私が最初に訪れたのは
1966年、この間は朝夕のみの運行で野町から
線路伝いに白菊町まで歩きましたが車両いなく
戻ってきました。駅を撮ればよかったのですが。
右のホーム間の線路は市内線との連絡線と
思います。市内線の公園下工場で鉄道線の
全検、重検をしていました。次がありそうで
ワクワクしています。
Katuさんの説明があるおかげで、写真が何を描いているのかよくわかります。掲載ありがとうございます。
常夜灯さん
最初のカットは野町駅で撮った白菊町行きですね。
金沢市内線との接続など後ほど路線図を貼ってみます。
私は白菊町の写真は見たことがなく、この駅については興味深々です。
まっとうな長野電鉄と比べると、北陸鉄道の昭和30年代がいかに凄まじいか、
長野電鉄とは違った意味で良き時代でした。
野町駅右手の線路はやはり市内線との連絡線でしたか。
検査時は野町から公園下の工場まで市内線街中を走らせたのでしょうか。
私がこの1年半後に金沢を訪問した時は野町の一角は訪問できないまま帰京してしまいました。
一泊する宿代があれば正月の金沢周辺の凄い世界を記録できたのに惜しいことしました。
今の美しい金沢の街からは想像できない凄い金沢があったのですね。
卓也さん
いつも父上が遺したスキャン画像を有り難く使わせていただき恐縮です。
私が撮っていない路線や、私とは撮影時期が異なる画像などを主体に
見させて戴くと、とても新鮮でアップする意欲が湧き上がってきます。
画像は一旦見てしまうと鮮度が落ちますので、極力必要の都度開封するようにしています。
田辺さんは私と違って地方私鉄に限定せず国鉄や大手私鉄など幅広く撮られているので
いずれ独立したサイトの立ち上げが必要かと思っています。
最後のカットの野町駅前ですが拙作HPの
画像から3号系統の車両の左が連絡線の
ようです。公園下の工場には能登線のキハも
来ていたと思います。その頃、名鉄から購入
した車両の向きが反対だったので香林坊で
方向転換を行ったそうです。北陸鉄道の
各線は殆どが殆どが夫々別の鉄道会社で
昭和30年代は開業時の施設で車両も一部
残っていました。長野電鉄とは成り立ちも
違い異なる風景でした。
4本煙突を手掛かりに探してみたところ、1962年の航空写真に白菊町に隣接する4本煙突の工場が確認できました。
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=272119&isDetail=true
当時白菊町からは5社への専用線が分岐しており、中でも大きな煙突から石川県練炭(株)の工場ではないかと思われます。次のカットのモハ3152も同じ踏切上からの撮影ですね。
1966年の航空写真では練炭工場は更地になっており、どおりで4本煙突の画像が見つからないはずです。入替をするEB122は、ボギー化される前の貴重な写真ですね。
煙突を見て安易に練炭工場と書きましたが、5社のうち溶鉱炉(電気ではないらしい)を持っていた日本電気冶金(株)の可能性も出てきましたので一応保留ということにします。当時の地図でもあれば特定できるのですが見つかりません。
2カット目の野町駅の写真を拡大してみると、ED201がいるあたりから左手へ、津田駒工業(株)の専用線が分岐していますね。塀の内側には無蓋車や有蓋車が見えます。さらに遠くへ延びる線路の途中からも工場側へ線路が分岐しています。
航空写真と付き合わせての推理は、いろんな発見があり楽しいものですね。
こちらも、岡本太郎さんみたいに「なんだこれは!!」と驚きました。
白菊町の駅や、野町から白菊町方面への線路がのびている写真は郷土写真集でしか見た事がなく、ものすごく貴重な画像ですね。感動ものでした。
常夜燈さん
市内線の野町前で左に延びる連絡線を貴サイトの写真で確認ができました。
この連絡線を使って鉄道線の車両が市内線が入線したのでしょうか。
連絡線を通ってもし能登線の車両を市内線の公園市まで運んだとすると香林坊のデルタカーブは問題なかったのでしょうか。真相は分かりませんが、いろいろなことが勝手に目に浮かんでしまいます。
そうそう、日光軌道線は国鉄貨車が精錬所まで軌道線に入線したので金沢市内線でもありうる話ですね。
#9999さん
1962年の金沢の航空写真をありがとうこざいました。
これからいろんなことが分かりますね。
当時の野町~白菊町には引込線が複雑に配置されていたことを初めて知りました。
そして市内線が野町駅とどう接続していたかも分かりました。
昭和30年代の画質のよい航空写真をどうやって検索するのか私にはできませんが、
いつも#9999さんの地図検索には感心させられます。
おかげさまで不明点がいろいろと明らかになって助かります。
また1枚の写真からいろいろなことを読み取る技も凄いですね。
あの時代の金沢のあの一角がどんなであったかを詳しく調査すると、
昔の金沢の産業と鉄道が浮かび上がり面白いでしょうね。
私も野町~白菊町間にこんなに引き込み線が
あったとは思いませんでした。訪れた時は
デキの殆どが西金沢にいましたので日曜日
だったかも。香林坊での公園下行のカーブは
大きかったと思います。国鉄金沢と繋がる
浅野川線と市内線との連絡線は記憶にありませんが
有っても兼六園と金沢城を繋ぐ橋下から公園下間は
勾配が大きいので能登線の車両は西金沢経由
だったのではと勝手に想像しています。
esehokuさん
コメントの中で写真の野町駅を白菊町駅に勘違いするような私の表現があり失礼しました。
写真は野町の駅だけで白菊町の駅は残念ながらありませんでした。
これを撮った田辺さんは、野町から白菊町にかけて迷路(引込線の分岐)のような線路を追って4本煙突が見える引込線まで行っているのですが、なぜかその近くの白菊町の駅は撮っていません。
中途半端な金沢の裏町に始発駅があったのは、この区間が工場貨物線として存在していたためのようで昭和47年に貨物線の役目も終え野町~白菊町間が廃止となり白菊町が始発駅になっていたのですね。
しかし白菊町も金沢の町外れに位置する中途半端な始発駅で
将来、石川線の存在価値が高まると香林坊が始発駅になるなんてこともありうるのでは?
常夜灯さん
能登線の車両は西金沢から入って野町で市内線に入線するのが十分考えられると私も思います。
白菊町駅と野町駅の画像がいろいろ見つかりましたので、見取図を作製してみました。
http://www.freightcar.jp/transit/hokuriku/shiragikucho.jpg
以下は参考にさせていただいたサイトです。
「ローカル線の坪庭」様
http://teramatiisejosai.travel.coocan.jp/isikawa.html
●モハ5132:白菊町 A→ (1965)
●EB122:白菊町 B→
○モハ3761?:野町駅の白菊町側から分岐する専用線
「はーさんの鉄道・旅・よしなし草」様
http://6.fan-site.net/~haasan55/Ishikawasousen.htm
●モハ3011:白菊町 A→ (1959)
http://6.fan-site.net/~haasan55/kanazawasinai.htm
○野町駅前 (1963, 1966)
「懐想 石川の鉄道」様
http://www.asagaotv.ne.jp/~ohara/24isikawa3.html
●EB, ED:白菊町 D→ (1969)
「北陸鉄道株式会社」様
http://www.hokutetsu.co.jp/kinenpage
●白菊町 C→ (1958)
「奥野君の専用線日記」様
http://okunokun.ikora.tv/e984624.html
●白菊町 E→
白菊町の4本煙突は、敷地の規模から日本電気冶金(後の日本電工)の可能性が大でした。
#9999さん
金沢犀川の川向こうにあった謎めいた一角、見取り図ありがとうございました。
ネット画像を付け合わせてみると次第に当時の様子が判ってきますね。
特にC D の白菊町の駅の風景は初めて見ました。
こんなだったのですか。
そして野町駅前の風景の写真で市電と亘線の関係がよく判りました。
野町の駅はほんとうに興味深い駅で、作りもしないのに
こんな風景を模型化したらどうなるか想像してしまいます。
市内線と郊外線が繋がっていたということですが
京津線や広電のような運行形態をしたら、どうなって
居たのでしょうか?
広電のように、市電状態?
京都のように、金沢駅まで地下化?
どうなんでしょうか。
ねこあたまさん
今、北陸の福井などでは私鉄路線が存続したおかげで恵まれた地方都市だそうです。
市内線と郊外線をつなげる連絡線路は大昔にあちこちで出来ていて、その大成功が広電ということに。
市電の衰退でその多くは消滅した連絡線も、これからは有用になるかも知れません。
将来、金沢で路面電車が復活すれば野町の連絡線から郊外へ乗入するか、
石川線が野町から金沢駅まで地下化するのか、
全く判りませんが唯一生き延びてきた石川線は、これからの鉄道を生かした街づくりで存在価値が高まるでしょう。
名鉄の初代3300系の車体に載せ替えられる前の、元伊那電気のモハ3150型がいい味出していますね。
半鋼製車体でダブルルーフという点が京王2150型に近いものを感じさせます。
リクエストですが、次は白菊町駅の写真もアップして下さい!
宵闇さん
元伊那電のこのタイプは昭和39年の浅野川線にも3101と3102がいました。
なかなか好ましいタイプですね。
石川線ではこの後名鉄からモ3300形のボディをたくさん買い込んだようですね。
手持ち部品と中古ボディを組合わせて仕上げてしまうなどは愉快な話です。
白菊町の画像は残念ながら持っていません。
コメント欄で#9999さんから紹介があったサイトに何枚か画像が見れます。
使いたいけど当然ながら無断借用の違法行為はできません。
ところで画像検索していると勝手に他人の画像をすまして使用している
違法行為のサイトが散見されます。なにこれ困ったもんです。
katsu様、ねこあたま様
市内線の復活・浅野川線と石川線の直結、セットで夢みていきたいです。
はじめまして。西宮後と申します。
金沢育ちで北陸鉄道でローカル私鉄好きになったわけですが昭和末の生まれなのでこれらの風景の場所の20数年後以降しか知りません。
白菊町や野町界隈は当時の自宅から自転車で20分ほどの馴染み深いところだったので「あそこでこんな風景が見られたのか」と驚くばかりです。
この区間の廃止は北鉄が野町を旅客営業の中心としていたこともありますが、止めとなったのは野田専光寺線という大通り建設の際にルート上に存在する白菊町~野町が邪魔になったのでしょう。
この道路は今では北陸自動車道金沢西ICと市街を結ぶ重要路線になっています。
北鉄の郊外線と市内線の直通ですが戦前は野町で市内線と松任への松金線が1本につながる配線で市内線用の電車を使って直通していたようです。
金沢駅前では浅野川線も市内線とレールがつながっており終戦直後の混乱期に内灘海岸で海水から精製した塩を市内まで貨車を直通させて運んだという話を聞いたことがあります。浅野川線市内線の連絡線はあまり使用されることなく早期に撤去されたそうです。
西宮後さん
野町界隈の情報をありがとうこざいました。
地図を見るとやけに太い道路が白菊町へ向かっていた廃線跡を横切っていますが、
やはり北陸自動車道と結ぶ重要な道路でしたか。
松金線は戦前まで野町から出ていたとは知りませんでした。
金沢市内線が野町から松金線に乗入していたり、浅野川線が市内線とレールが繋がっていたり
今、都市交通でやろうとしていることは大昔にやられていたのですね。
西宮後です。
今更な事ですが怪しい4本煙突の写真で写された方角の住所と昭和13年の金沢市工場要覧を照合したところ日本電気冶金が該当しました。
昭和10年5月設置の合金鉄工場で東金沢駅付近にも工場があり規模拡大と市当局からの要請でここに工場を置いたそうです。
昭和初期の金沢市は郊外に工業地帯を作ろうとしており補助金を出して工場誘致した結果石川線沿いに工場進出が多かったようですね。
この計画は戦争の激化で流れてしまいましたが白菊町~野町の怪しげな風景はこのような歴史的背景があって誕生したようです。
西宮後さん
今回も貴重な情報をありがとうございました。
金沢の川向うの1枚の写真が益々興味深くなってきました。
怪しげな工場の件、近々に取り上げてみます。
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