案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2015年2月4日水曜日

淡路交通 バスで島めぐり

= 島めぐりバスのコース

1966(昭和41)年まで淡路交通の電車が走っていた淡路島は何とも言えない風情溢れる土地であった。鉄道の沿線は玉ねぎ畑、ため池、埃だらけの道路ばかりで、淡路ならではの淡路人形、西海岸の五色浜、鳴門のうず潮見たさに同行の友人と別れ、淡路交通の島めぐりバスに乗って珍しく観光をしたことがあった。
この頃の島の道路は至るところ穴だらけで、西海岸の道路などは更にひどくバスの乗客はシートから放り出されるくらい飛び跳ねた。
淡路島出身の阿久悠さんの著書「瀬戸内海少年野球団」の舞台設定は淡路島江坂町(仮定)で西海岸の五色浜を含むこの地域であったようだ。
鉄道沿線は両端の洲本と福良以外は見るべき名所もなかったが、島の電車の淡路風情は観光名所でも何でもない島の日常生活に溢れているのに気付いたのはつい最近のことであった。


五色浜の海岸 1965年8月
天然記念物五色浜の海辺は目もあざやかな五彩の玉石に埋められ、真に自然界の驚異である。ここは慶野松原とともに周遊指定地である(淡路交通のパンフレットより)

電車の終点福良からうず潮見物へ向かう

鳴門のうず潮
福良に近い「市」にあった淡路人形座

埃まみれの沿線を行く島の電車
洲本港から福良港へ観光客を運ぶ島の電車

2 件のコメント:

伊豆之国 さんのコメント...

私が淡路島を訪れたのは、15年前の「淡路花博覧会」が開かれたとき。新神戸駅から高速バスで明石海峡を渡って島へ入り、博覧会見物の他、路線バスで島を巡り、「大鳴門橋記念館」を見て、人形浄瑠璃を見物。ただ、潮の具合がよくなくて渦潮がはっきり見られなかったのが残念でした。帰りがけには北淡町にある「阪神淡路大震災の断層」も見てきて、敷地内には地震で壊れた民家も残されていて、震災の恐ろしさを実感したのでした。…でもこのときには、その11年後にまさか自分がそんな体験をするとは想像もできませんでしたが…。
このときの道中では、洲本のバスセンターでバスを乗り継いだのですが、電車線の駅舎だったと思われる建物が残っていて、福良行きのバスが停まっていたのは、元はホームだった様な感じの乗り場でした。淡路島では一泊したのですが、洲本の郊外の海辺にあるホテルで、洲本の街中は結局歩くことはありませんでした。

katsu さんのコメント...

伊豆乃国さん
震災から5年後の島めぐりでは震災の傷跡がまだいろいろあったことと思います。
淡路は震災でそれまでの街並みの全てが生まれ変わったことでしょう。
震災から20年経った今、見違える風景は震災復興後の力強い姿なんですね。
あの時代の洲本のおおらかで長閑な風景は、震災と時代の進歩で見違える街に生まれ変わったのでしょう。