案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2014年6月18日水曜日

早春の津軽平野

津軽平野の鉄道を訪問したのは1966(昭和41)年の3月初めであった。
花輪線の龍ヶ森で86三重連を撮って陸中花輪で一泊後、陸中花輪の始発に乗り早朝の大館へ出た。
この頃の奥羽本線は蒸機列車がまだ盛んに走っていて大館は蒸機で賑わっていた。

早朝の大館駅 花輪線の86 1966.03.03

早朝でまだうす暗い大館駅. 奥羽本線青森行き鈍行列車

うす暗い大館駅を6:32に青森行鈍行列車が発車した。 秋田・青森の県境矢立峠を補機をつけて越え、弘前まで1時20分ほど。朝の車内の殆どは弘前へ通う高校生達で通学列車であった。山並みが去り勾配を下ると津軽平野が開け遥かかなたに白く光る岩木山が見え、美しい光景だ! いかにも津軽へやって来たという感じがしたものだった。到着した弘前の駅は朝の勤客・通学客で活気を帯びていた。

 弘南鉄道から見た津軽富士(岩木山)
津軽平野を走る弘南鉄道、弘前電鉄、津軽鉄道、国鉄五能線は津軽富士(岩木山)を背に凍りついた残雪の田畑の中を個性溢れる旧型車両が走っていた。

津軽富士を背に走る弘南鉄道  1966.03.03
朝のラッシュが過ぎ、のんびりした頃

弘前の裏町から出ている弘前電鉄の電車

五能線の五所川原駅で跨線橋を渡ると津軽鉄道のりばがある. 1966.03.03

五能線の五所川原駅.津軽鉄道の金木、津軽中里方面への乗換え案内がある.

殺風景な津軽鉄道の五所川原駅ホーム

岩木川を渡る五能線86列車. 五所川原

五所川原17:30発の五能線下り列車を岩木川鉄橋で撮り終えると辺りは急激に暗くなり五所川原の街に灯りがつき始めた。気がつけばこの日は朝にパン一きれをかじっただけ、まともに食事する時間もなかった。今夜のねぐら青森発23:45の急行「八甲田」が発車する青森で駅前に出てこの日初めてまともな食事(定食)にありつけた。夜行列車で数時間寝ると翌朝4時過ぎには花巻下車となる。

13 件のコメント:

chitetsu さんのコメント...

どの線も懐かしいです。
6年弱の青森勤務時に歩き回った光景が目に浮かんで来ました。
岩木川の橋や五所川原の駅前風景もついこの間見たかのように思い出しました。

#9999 さんのコメント...

庄内と津軽は、撮影の目的を失っていた時期にカメラを持たずに旅行しました。未知の私鉄の連絡駅が近づくにつれ浮足立ってくる感覚は同じですが、その後が現役時代とは違っていました。
駅を出てまずジャズ喫茶を探してコーヒーで一服というのがお決まりのパターン。こんなCMに乗せられてしまった感は否めませんが・・・
http://www.youtube.com/watch?v=LmVVocTbe_0

katsu さんのコメント...

chitetsuさん
青森勤務の時代には散々歩きまわりこの津軽一帯は撮り尽くされたことでしょう。
羨ましいことです。
今でも弘前や五所川原といった地名に惹かれます。
今、新幹線で行くと昔とは随分感じが違うのでしょうね。
岩木川や五所川原の街に行ってみたいものです。

katsu さんのコメント...

#9999さん
ディスカバージャパン1970年代ですね。
私もこの頃は鉄道撮影なんか止めてこんなCMに流されていました。
苦労ばかりの鉄撮りではなく、ごく普通の当たり前の旅を楽しみたいと。
でも今になっても残るものは何も無かったような気がします。
1970年代の鉄道はもうつまらないと勝手に決めつけていた私でしたが、
もしこの頃を撮っていたら今になって苦労が報われ大変楽しめた事と思います。

伊豆之国 さんのコメント...

津軽平野を旅したのは、もう20年以上も昔の春の連休。大鰐温泉から、既に元東急7000系の天下になっていた弘南鉄道大鰐線で中央弘前へ、近くには寺町があって、日本最北端という五重塔や、若死にした津軽藩主のミイラなど多くの見所も。武家屋敷町も風情がありました。散り際だった弘前城の桜は、今も強烈な印象を残しています。
弘前から五能線で、当時走っていた「ノスタルジック・ビュー・トレイン」という展望列車で五所川原へ。絶景の区間に乗れなかったのは少々残念でしたが、津軽鉄道に乗り換えて金木へ。太宰治の生家「斜陽館」は、当時は旅館でしたが、今は記念館となったとのことです。そこからタクシーを飛ばして津軽半島を半周。芦野公園の桜も満開、不思議な「イタコ堂」も。もうすぐ初夏というのに肌寒い風が身を突き刺す中、小泊村、竜飛岬と回り、遠くには北海道の島影もうっすら…。三厩からの列車が無く、結局降りたのは蟹田の駅でした。
弘南線のほうには、それより10数年前の夏、まだ旧式電車の天下だった頃に黒石からの帰りに乗っているのですが、その前日は暴風雨で道路も水浸し、翌日になっても電車は完全復旧せず、1駅間だけバス代行だったのを覚えていますが、乗った車両はなんだったかはもう覚えていません…。大鰐線の元東急6000系は、だいぶ前からごく稀にしか運行されずほとんど車庫で眠っていて、たまに動くときにはTVでも紹介されたことも記憶していますが、それも数年前のことで、補修部品もなくなっている状態では「現役」扱いになっていても再び走ることはもう不可能になっているのでしょうか…。

katsu さんのコメント...

伊豆之国さん
いつも詳細な旅行記ありがとうこざいます。
津軽平野を旅した20年以上昔と言えば津軽平野の鉄道もすっかり近代化され変貌していた頃ですね。
40年昔の1973年に五能線の86が消えその後は五能線ではなくなってしまった感じがします。
そして弘前もあの頃の電車は全て入れ替わってしまったのは当然で、私は東急ステンレス入線以降のことはよく知りません。
今では津軽鉄道に昔の面影を残すくらいでしょうか。
伊豆之国さんが30数年前に訪問された旧型車時代の弘南線(旧弘南鉄道)は良かったでしょうね。
私の津軽訪問は1973年に86なき五能線を車で走ったのが最後でした。

株の初心者 さんのコメント...

とても魅力的な記事でした。
また遊びに来ます!!

黄昏特急 さんのコメント...

katsuさん、初めまして。黄昏特急と申します。このブログへは、初めての投稿となります。


さて、この記事の2枚目の写真には、katsuさんが大館駅から弘前駅まで乗車された、大館発朝6時32分の
奥羽本線の青森行きの下り普通列車(C61-30号機牽引)が写っていますね。
この当時、奥羽本線(秋田以北の奥羽北線)の普通列車のうち、秋田-青森間の列車、大館-青森間の列車
などは、青森機関区配置のC61、またはC60が牽引していました。
梅小路の動態保存機のC61-2号機や、JR東日本の動態保存機のC61-20号機の姿も見られましたよね。


ところで、この記事に出てくる大館発朝6時32分発の下りの普通列車は、625レ(1965年10月のダイヤ改正前
の列車番号は615レ)ではないでしょうか。
この列車は、(旧線時代)の矢立峠越えの区間(陣場→碇ヶ関間)では、D51を後部補機として連結して峠を
越えていましたが、この列車の1本前の列車で、大館始発の朝1番(朝5時台に発車していました)の下りの
普通列車である青森行きの623レ(1965年10月のダイヤ改正以前は613レ)は、この時点では、陣場-碇ヶ関間
においてはD51を後部補機として連結して矢立峠を越えていたものの、1967年10月のダイヤ改正(このダイヤ
改正で、青森機関区のC61の奥羽本線での運用が大幅に増えました)からの1年間は、大館→弘前間では客車
5両前後で運行していたため、矢立峠越えの区間でもC61の単機牽引(補機なし)での運行になったとのこと
です。

黄昏特急 さんのコメント...

追伸


この記事の2枚目の写真に写っている、大館発早朝6時32分の青森行きの下り普通列車を
牽引するC61-30号機ですが、煙突の左右にも、小型の除煙板を装備していますね。
この小型の除煙板ですが、青森機関区のC61とC60、盛岡機関区のC60が装備していたの
ですが、仙台機関区のC61とC60には装備されていませんでした。
青森機関区配置のC61やC60でも、仙台機関区からの転属機には装備されていなかったと
いうことですが、これは、1950年代後期から1960年代前期の時期に盛岡鉄道管理局管内の
機関区(盛岡・青森機関区)に配置されたハドソンだけに見られる特徴と言えますね。

黄昏特急 さんのコメント...

追伸の続き

 
2018年4月5日 14:47の投稿で、仙台機関区配置のC61には、煙突の左右の小型の除煙板は装備されて
いなかったと書きましたが、本日、季刊誌『国鉄時代』の「みちのくのC61」という、元仙台機関区
所属の機関士の方の投稿を読むと、「仙台機関区配置のC61のうちの3両にも、小型の補助除煙板が
装備されたことがあるが、短期間で撤去された」ということが書いてありました。

1971年の10月まで奥羽本線の秋田-青森間で活躍し、その後、日豊本線の宮崎機関区に転属となって
最後まで現役であった6両のC61のうち、18号機も、青森機関区時代は小型の補助除煙板を装備して
いましたが、宮崎機関区に転属となった前後に撤去されたようです。

katsu さんのコメント...

黄昏特急さん
再三コメント戴きなかがら返信が遅れて申し訳ありませんでした。
私の本の出版やイベント準備でゆっくりすることができませんでした。

大館発朝6時32分の奥羽本線の青森行きの下り普通列車ですが、
お問い合わせにお答えできるほど私は当時の国鉄列車に詳しいわけではありません。

私がこの列車にとても興味を抱いたことは、沿線の高校生達が朝の通学時間に使っていたことで、
あの高校生達は団塊の世代だったのかなど、もう一度この列車のことを書いてみたいと思って居ます。
国鉄列車はそんな時代や生活の匂いを感じさせるのが好きです。
東北のC60やC61に旅情を感じます。
落ち着いたら、旅の記録を整理して続編をアップしたいと思います。

伊豆之国 さんのコメント...

先月末、27年ぶりに津軽を訪れ、行きは新青森から「リゾートしらかみ」に乗って木造駅で降り、タクシーで縄文遺跡の展示館などを見て一軒宿の温泉旅館に一泊、翌日はやはりタクシーを飛ばして太宰治の生家「斜陽館」へ。27年前には旅館として営業していたため1階の一部しか見られなかったのが、その後旅館が廃業して記念館となったので、今度はその全部を見ることができ、改めてその豪勢な造りに感嘆したのでした。
津軽鉄道には、その帰りに金木から五所川原まで乗りましたが、途中の駅には「落書き列車(?)」となっていた車両がそのまま放置され、五所川原の構内にも朽ち果てる寸前になっているような古い車両が並び、地方私鉄の置かれた厳しい経営環境が現れているように思えました。
五能線には、そのあと深浦での2時間近くの乗り継ぎ待ち(その時間を利用して町外れのお寺でご開帳していた観音様を拝んできました)を挟んで、27年前に乗れなかった絶景の区間を乗り通し、日本海の絶景を堪能することができましたが、いずれも旧式ディーゼル2連の「鈍行」なのにもかかわらず、途中のいくつかの「リゾート駅」からツアーの旗を掲げた団体客が乗り込んだり降りたり、という光景に出くわしたのには、ちょっと戸惑いました。

katsu さんのコメント...

伊豆乃国さん
相変わらず各地に旅に出て羨ましい限りです。
津軽も五能線も随分変わってしまったようですね。
昔、深浦あたりはハチロクのメッカでしたね。
そしてリュックを背負ったカニ族がたくさん来ていました。
十和田湖を見て深浦に泊まりこれからねぶたを見て北海道へ渡るとか。
それが今ではリゾート駅からツアーの団体客ですか。