案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2012年8月30日木曜日

真夏の片上鉄道2 素晴らしき混合列車

オープンデッキ付客車ホハフ2002を最後尾につけた混合列車。混合列車に乗るのはこの時が初体験で片上まで混合列車を楽しんだが、お陰でこの混合列車を撮れなかったのが残念だった。1962.07.28

このオープンデッキ付ホハフ2000形は5両製造されたそうで、まるで国鉄オハフ61形の全長20mを17mクラスに縮めたような車体であった。昔の模型でよく全長短縮自由形ボディが発売されオハ61形などもあったような気がする。これをオープンデッキ付に改造すれば片上風客車となり、このホハフ2000形は模型のよき題材であった。嬉しいことにホハフ2003と2004は今でも動態保存されているようです。
こんな客車に乗ってごきげんな我ら。和気

乗車した素晴らしき客貨混合列車の編成は。
 片上行 C12+無蓋車数量+ワフ15+ホハフ2002
 棚原行 C12+無蓋車数量+ハフ50+ホハフ2002+ホハフ2001+ワフ15+後部C13

片上鉄道にしかいないC13

和気駅で編成されたホハフ2002+ワフ15+無蓋車+C12の 片上行混合列車

混合列車を牽引したのが C12-201.

こんなワフもいた。
ワフ11
ワフ2

2012年8月20日月曜日

山陽電鉄のロクサンと別府鉄道の煙

先日、Chitetsuさんのブログ「吊り掛け電車を求めて」で山陽電鉄のロクサン電車が取上げられ、別府鉄道側から撮った山陽電鉄ロクサンのことを思い出しました。早速、デジタル化していなかった初期のネガを数本スキャンしてみました。
この時は昭和37年夏の地方私鉄めぐりで、東京駅18:30発の急行「はりま」で翌朝6時 明石に到着し隣の山陽電鉄に乗って別府鉄道と立体交差する電鉄別府で降り、別府鉄道からスタートしたのでした。

マルーン一色の各停233+232  東二見  1962.07.28
山陽電鉄は初めて乗った関西私鉄でありペナペナ切符が印象的であった.

山陽ツートンカラーの急行姫路行 827+826 東二見
確かここで各停に乗換えて電鉄別府へ向かう.

現役時代の山陽のロクサン電車.   電鉄別府-須磨町
早朝の別府鉄道を追いかけていると立体交差の上にちょうどやってきたロクサン.

別府鉄道野口線の気動車.  背後の土手上に小さな電鉄別府駅が.

2012年8月19日日曜日

京都市電 高野界隈

百万遍交叉点を過ぎた東山線はその先で京福叡山線と平面クロスし更に北へ直進すると、左にカーブする高野の交叉点に電停があった。高野から北大路線を北西に進むと高野橋を渡る。

左にカーブする高野の交叉点に電停があった.1969.1.2

高野川に架かる高野橋を行く北大路線. 高野橋の背景に比叡山が迫る. クリック拡大

高野橋を渡る 臨たかの行

500型526⑬系統 四条河原町行 高野近く
 500型でもこちらは全長が短いタイプ516 今出川線①系統 みぶ行 関田町

695  高野

1009 ⑬系統 四条河原町行  高野

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2012年8月17日金曜日

京都市電 東山線2

東山線東大路通りを更に北へ向かうと市電は京大病院や京大の建物の間を走る。
このあたりの今をストリートビューで覗いてみると、京大や街の建物などが大きく変わったようだが当時の面影を残す建物や低い石垣なども見ることができる。

左に京大病院を見て進むと電停近衛通に着く. 南進する887 ①系統 四条大宮行  1969.1.2
電停近衛通. 背後の建物は京大.
常夜燈さんによれば京大の建物で今も変わらないのはこの辺りだけとか.

左に京大医学部、右に京大の間を南進する721 ①系統 四条大宮行

電停東一条あたり.右に京大を見て北進する911 ⑥系統

京大を右に見てカーブし百万遍交叉点まで直進する515 ①系統 みぶ行

百万遍交叉点で東山線に交差する今出川線 の927  クリック拡大

百万遍交叉点で東山線を南進する1011 ⑥系統

百万編交叉点で今出川線の②系統が西に向かう. 右手が京大.

2012年8月14日火曜日

正月の京都市電 東山線1

今年正月にアップした厳寒の京都。
先日、コメントを戴いたデナ21さんはこの時代に京都市電「東山線」によく乗車されていたそうで
この時代に乗車されていた皆さんはもう還暦を済まされたとのこと。
今週はお盆でちょうど京都五山送り火を迎え東山では大文字送り火がまもなく。
夏はこんな大文字送り火を望む東大路通りを南北に走っていた京都市電「東山線」。
お盆とは正反対の厳寒京都の静かな昭和44年正月風景を
撮影順に東山仁王門あたりから北に向かってみました。


大文字山を見て東大路通りを走る東山線.熊野神社前-岡崎公園  1969.1.2 クリック拡大
疏水に架かる徳政橋を渡る

東大路通りを南進する715 ⑥系統 京都駅行.
岡崎公園前-東山仁王門で現在のバス停「東山二条」あたり

北進する709 ⑥系統 植物園行.   岡崎公園前

岡崎公園を過ぎた先の盛り上がったところで小さな橋(1枚目の画像)を渡る.
南進する922 ①系統 四条大宮行

熊野神社前の平面クロスに到着する.
南進する740 ⑥系統 京都駅行

京都市電 東山線 (高野 百万遍 熊野神社前 東山三条 祇園 東山七条 東福寺)

2012年8月4日土曜日

日本の国づくりを支えてきた石灰石輸送列車

八高線を走るD51が牽く石灰石輸送列車を見たあの1960年代後半は一体どんな時代であったのか、
財団法人セメント協会の日本のセメントの需要の推移 を見ると、ちょうど「いざなぎ景気」「列島改造ブーム」でセメントの国内需要・生産が急激に伸びている時代であった。

日本セメント(旧浅野セメント)埼玉工場が日高市に新設されたのが昭和30年。私が見たあの頃の八高線の石灰石輸送列車は、セメント生産増大の真っただ中にあって国づくりの一翼を懸命に担っていた光景であったということに。セメント国内需要はさらに1990年まで、生産は1996年まで伸び続けた。

その後、1999年に石灰石輸送がトラック輸送に切替わるまで鉄道輸送の時代が続き、高麗川から日本セメント(現太平洋セメント)埼玉工場までの専用線が石灰石搬入と製品出荷に使われていた。
この時の専用線の廃線跡が今でも見ることができる。

川越線に乗って高麗川駅を大宮方面へ発車すると
左に八高線、右に川越線、そして中央に工場専用線跡が見える. 2012.07.31 

高麗川から日本セメント(現太平洋セメント)までの専用線については
H.kumaさんの「太平洋セメント埼玉工場専用線」に素晴らしいレポートがあります。
H.kumaさんの地図によれば高麗川駅からセメント工場までの専用線は下記青線のルートであった。

セメント工場専用線

日本センメントの巨大な煙突に向かって延びる専用線.  クリック拡大

この専用線でよく見掛けた96の貨物列車.  1966.08.05

高麗川 1967.02.03

八高線 東飯能-高麗川 1967.02.03
八高線 東飯能-高麗川 1967.02.03

八高線金子坂を下り高麗川へ向かう石灰石輸送列車.  東飯能-金子 1967.02.13
背後に飯能の街を見て復路の金子坂を登る. 東飯能-金子 1967.02.13

青梅鉄道、南武鉄道の時代にさかのぼると、昭和6年に青梅鉄道から南武鉄道の浜川崎までが繋がり、青梅の採掘場から川崎工業地帯の日本鋼管、浅野セメントまで石灰石の一貫輸送が可能になっている。
1970年の頃はED16が牽く石灰石列車は浜川崎まで10本/日、拝島からD51に換えて高麗川まで8本/日あったという。製鉄とセメントに必要な石灰石を運ぶために集結したED16については別の機会にアップしてみたい。

2012年8月3日金曜日

高麗川駅の煙

現在の高麗川駅.昔 蒸機が煙を上げ休んでいたのはこの一角でしょう. 2012.07.31
枻出版発行「ニツポンの蒸気機関車9600」の中で西村光氏の「川越線郷愁」に当時の高麗川駅のことが判り易く解説されていたので引用させて頂きました。

1960年代後半、八高線の高麗川~拝島間で16往復、高麗川~寄居間で9往復、川越線の大宮~高麗川間で6往復の貨物と1往復の客車列車が設定されていた。高麗川駅では大宮機関区の9600、八王子機関区のD51、高崎第一機関区のC58及びD51のいずれかの蒸気機関車が常時煙を上げていた。

高麗川駅の一角.   1967.02.03
右手四角い詰所の今昔を見較べてみると、今もこの形の儘で残っている.

ターンテーブル、給水、ピット等があった一角で休む96とD51.  1966.08.05  クリック拡大

次の作業へ準備中の96.  1966.08.05

高めのデフを装着したカタチよい96

高麗川の一角で蒸機を支える人達.     1966.08.05
この一角にあったピットと給水塔、その先に詰所が. 1966.08.05
八高線のC58.   1967.02.03