八高線を走るD51が牽く石灰石輸送列車を見たあの1960年代後半は一体どんな時代であったのか、
財団法人セメント協会の
日本のセメントの需要の推移 を見ると、ちょうど「いざなぎ景気」「列島改造ブーム」でセメントの国内需要・生産が急激に伸びている時代であった。
日本セメント(旧浅野セメント)埼玉工場が日高市に新設されたのが昭和30年。私が見たあの頃の八高線の石灰石輸送列車は、セメント生産増大の真っただ中にあって国づくりの一翼を懸命に担っていた光景であったということに。セメント国内需要はさらに1990年まで、生産は1996年まで伸び続けた。
その後、1999年に石灰石輸送がトラック輸送に切替わるまで鉄道輸送の時代が続き、高麗川から日本セメント(現太平洋セメント)埼玉工場までの専用線が石灰石搬入と製品出荷に使われていた。
この時の専用線の廃線跡が今でも見ることができる。
川越線に乗って高麗川駅を大宮方面へ発車すると
左に八高線、右に川越線、そして中央に工場専用線跡が見える. 2012.07.31
高麗川から日本セメント(現太平洋セメント)までの専用線については
H.kumaさんの「
太平洋セメント埼玉工場専用線」に素晴らしいレポートがあります。
H.kumaさんの地図によれば高麗川駅からセメント工場までの専用線は下記青線のルートであった。
セメント工場専用線
日本センメントの巨大な煙突に向かって延びる専用線. クリック拡大
この専用線でよく見掛けた96の貨物列車. 1966.08.05
高麗川 1967.02.03
八高線 東飯能-高麗川 1967.02.03
八高線 東飯能-高麗川 1967.02.03
八高線金子坂を下り高麗川へ向かう石灰石輸送列車. 東飯能-金子 1967.02.13
背後に飯能の街を見て復路の金子坂を登る. 東飯能-金子 1967.02.13
青梅鉄道、南武鉄道の時代にさかのぼると、昭和6年に青梅鉄道から南武鉄道の浜川崎までが繋がり、青梅の採掘場から川崎工業地帯の日本鋼管、浅野セメントまで石灰石の一貫輸送が可能になっている。
1970年の頃はED16が牽く石灰石列車は浜川崎まで10本/日、拝島からD51に換えて高麗川まで8本/日あったという。製鉄とセメントに必要な石灰石を運ぶために集結したED16については別の機会にアップしてみたい。