案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2011年11月30日水曜日

会津線 会津田島

会津線の貨物営業は1982年に廃止となった。
当時の貨物列車の荷を見ると木材をけっこう運搬していたようで、会津田島の駅の周辺には木材が積み上げられていた。C11が休む山間の長閑な光景はいかにも国鉄ローカル線の風景であった。 あれから40年、会津鉄道に変身した現在の会津田島からは遠い昔に見た風景が全く結びつかなかった。

現在の会津田島駅  2011.11.22
駅に降りた瞬間、これが会津田島なの? 昔の長閑な光景は何もなかった.

会津田島  更に会津滝野原(現会津高原)まで線路が延びる.  1971.10.3

いつもC11が数量煙を上げていた小さな会津田島機関支区

駅の周辺に積まれた木材
会津田島駅

2011年11月23日水曜日

会津線 湯野上温泉~会津田島の車窓

浅草発8:10の東武快速新藤原行きに乗り新藤原、会津田島で乗り継ぎ、湯野上温泉に着いたのが12:20と約4時間ほどであった。遠い昔、車で鬼怒川から山王峠を越えよくこの沿線を走りC11を撮ったものだが、一体どの辺りで撮ったのか今回初めて会津線に乗って車窓から沿線を眺めたのでした。

過去何回もやって来てさんざん見なれた筈の会津線の景色だが、車窓に見える遠景の山並みが冠雪で気味悪いくらいの美しさには驚いた! こんな風景見た事ない。昔から変わらず筈もない山並みの景色、これに気付かなかったのは遠景の山並みが冠雪するシーズンに来たことがなかったためだろう。そして線路ばかり見ての車運転で全体が見えなかったものかもしれない。

最も分からなかった沿線は湯野上を出た会津若松方面へ向かったSL撮影名所だが、そこは大川ダム建設で会津線ルートと駅名も大きく変わってしまったことを思い出し確認するのは諦めた。
湯野上温泉~会津田島間でも厄介なのは駅名が全く変わってしまったのが4駅もあることで、昔のままの駅名は弥五島、会津長野、会津田島くらいしかない。

会津下郷から会津田島へ向かう車窓3景
会津下郷-ふるさと公園    2011.11.22

会津下郷-ふるさと公園  

会津長野- 田島高校前
上の3景は会津下野郷から田島高校前にかけて車窓に見えた美しい山並み.
正確には判らないが栃木県境の甲子山~朝日岳にかけての連峰と思われる.

野岩鉄道と会津鉄道が接続する会津田島駅

2011年11月15日火曜日

朝の仙台市電

仙台と云えば仙台市電が思い出される。
上野から夜行車中泊で朝を迎える仙台は東京から丁度よい距離で、朝から効率よく動くことができた。
夜行列車で到着する早朝の地方都市と云えば、ひと気のないうす暗い駅前に路面電車が走っている風景が定番であった。
前夜20時50分に上野を出発した青森行き鈍行列車は仙台に30分遅れで5時半頃に到着。
大都会仙台も早朝の駅前は人もまばらで通勤・通学時間前のひっそりとした風景であった。
昭和38年9月の仙台行きは市電と仙台機関区を同時進行で撮り、朝暗い内から仙台の街を駆け巡った。
あの時の風景の今をGoogleストリートビューで覗いてみるとその変貌ぶりに驚くばかりである。

全点ポップアップ拡大画像になります。   撮影日 1963.9.29
日が昇る前の朝の仙台駅前
様々な看板がいかにも地方都市らしい駅前
大都会仙台の駅前もこんな風景であった. 駅前の丸光百貨店が増改築中
仙台駅前の停留場
仙塩街道を行く10系統原町行. 花京院-小田原一丁目
花京院を出るとさんさんと差す朝日を浴び東北本線を越える.橋の碑は今もそのまま残る.
現在はこの上に新幹線高架ができうす暗い光景に一変した。
仙塩街道を行く10系統原町行. 花京院-小田原一丁目
東北線を越えると左にカーブする.
仙塩街道を行く9系統原町行
 花京院.  9系統 大学病院前行き
花京院の交差点

2011年11月13日日曜日

仙台鉄道 加美中新田の風景

1960(昭35)年5月に全線廃止となった仙台鉄道。ここも見る事が出来なかった遠い昔の軽便鉄道の一つです。加美中新田の風景の写真4点は学生時代に鉄研の先輩から頂戴したもので、撮影者の了解を得てアップします。
仙台鉄道は北仙台~西古川間44kmの長大な軽便であったが昭和26年にその殆どが廃線となり、昭和35年まで加美中新田~西古川間3.4kmが残されていた。写真の加美中新田の風景は廃線間際と思われます。 減速進行さんの仙台鉄道路線図でいかに長大路線であったかがよく分かります。

                               撮影: 法政大学鉄研OB竹下氏

DB701とキハ3  加美中新田  昭和35年頃


キハ3 昭和3年丸山車両製の木造客車を、
戦後 協三工業にて気動車に改造され最後まで活躍した.
キハ3 片側がバケットで反対側はデッキのみ.
アーチバー風の台車を履いた元客車キハは、頚城の元客車ホジと同様.


キハ4 昭和15年丸山車両製作所製

以下は仙北鉄道DB071で、仙台鉄道DB701と製造メーカ、自重が同じで製造時期が1年違い。
外観は全く同一で両者は兄弟機なのだろう。

仙北鉄道DB071  瀬峰  1964.8.4 


仙北鉄道 DB071 車両竣功図  動輪径730Φ
協三工業 昭和26年8月製造 自重7トン

北仙台行きの仙台市電. 東京オリンピック直前の1964年夏の丸光百貨店前. 1964.8.8 
ずっと昔、仙台鉄道は市電の北仙台から出ていた.

2011年11月8日火曜日

西武是政線 武蔵境駅南側

西武安比奈線は入間川の砂利運搬でしたが、西武是政線(現多摩川線)もこの頃多摩川から砂利を運搬していました。昭和37~38年の武蔵境駅南側、そして砂利運搬線是政線をアップしてみます。

是政線の始発駅である中央線武蔵境駅は、当時南側が広々としたヤードでその先は木立のある静かな住宅地であった。現在は中央線の高架化で武蔵境駅も大きく変貌し、駅南側には大きな商業施設が並ぶ風景に。是政線も立派な高架駅になっている。
この武蔵境駅南側の昔の風景を写真で見てみると。


現在の武蔵境駅南側. 黒いビルの向こうが南口駅前. 2011.11.06
左が高架駅になった是政線と中央線. 立川側から見る.



陸橋を渡り南側に下りると、名糖牛乳店や日通のトラックがいる駅裏手風景.1963.5.19
西武E12が入替え中

発車待の是政線ホームの先に陸橋があり→へ進むと南側へ.1962.8.27
立川側から見る.

国鉄のハチロクが貨物入替え作業で煙を吐いていた.1963.5.19
武蔵境駅南側ヤードの向こうは住宅地.
中央線下りを降りると、青空一杯の是政線ホームがあった.1962.8.27
新宿側から見る.
武蔵境駅の南側全体.左の木立ある住宅地が現在の南口駅前あたりか.1962.8.27


現在の多摩川線武蔵境駅

2011年11月5日土曜日

通りすがりの一畑電気鉄道 昭和48年

昨年5月に封切られた RAILWAYS 一畑電車。この映画を見てJRローカル線とは違って出雲のローカル色豊かな地方私鉄を楽しむことができた。

赤いデハ6が行く   出雲大社前近く  1973.11.7



松江に向かう電車の車窓に見えた宍道湖

昭和48年の11月、通りすがりに撮った秋の一畑電気鉄道。
昨年話題となったRAILWAYSのデハニ50の赤い色をした旧型電車が走っていた。出雲大社前の駅にやってきたのは赤いデハ6で、これに乗って夕暮れの宍道湖沿いを走り、到着した松江温泉駅にはクリーム色に青帯のクハ171が停まっていた。赤いデハ6とデハ1の2両は美しい状態で出雲市内の保育園に保存されているそうである。
 
出雲大社前駅のデハ6   1973.11.7 
 
出雲大社前駅


   クハ171  松江温泉(現松江しんじ湖温泉)駅 1973.11.7 
駅名の変遷: 北松江→松江温泉→松江しんじ湖温泉



山陰本線にはまだD51の鈍行列車が走っていたが客車内は閑散としていた.
優先列車通過待ちで30分も停車する鈍行列車だった. 戸田小浜 1973.11.6