案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2019年2月18日月曜日

奥羽本線 糠ノ目駅

昭和41年3月、奥羽本線はまだ残雪の寒い初春であった。
地方私鉄の多くは国鉄線の接続駅から賑わいのある町まで人や荷物を運んでいた。
奥羽本線の糠ノ目駅の脇にあった殺風景な「のりば」から出ていた高畠線。
全国至るところにあったこんな国鉄線と地方私鉄の接続駅の風景。

撮影:1966.3.6
 奥羽本線のC57とDF50。 すっかり無視してしまったDF50が写っているのが珍しい。

奥羽本線の鈍行列車で北へ北へと向った。

「山形交通 高畠線のりば」の看板を掲げた模型のような糠ノ目駅にポツンと停車していた小型電車モハ1。 駅の周辺はどこまでも田園が続く。

こちらは西武所沢工場の再生車モハ4で美しい山交カラー(マルーンと桃色)に塗られていた。

入線直後でピッカピカのモハ4。   糠ノ目

沿線一の街高畠に到着すると客の殆どが下車する。小形電車モハ1は更に二井宿へ向かった。

高畠駅の楽しい風景。

峠の手前で線路が終わる二井宿に到着。

6 件のコメント:

esehoku さんのコメント...

国鉄の「本線」クラスの方が電化されておらず、そこへ接続していた地方私鉄の方が電化されているというのが、なんかよく考えると珍妙な感じもします。でも昔は、これがわりと普通の光景だったのですね。

katsu さんのコメント...

esehokuさん
確かに地方私鉄では零細路線でも電化されているのがよくありました。
小さなトロリーラインなど電化とはいえ「本線」クラスとは比較にならないくらい貧弱なものでした。
そんなトロリー電化線が魅力的でした。

なと。 さんのコメント...

同じ山形県内の羽越本線と庄内交通も同じような関係でしたね。

初めて庄内交通の鶴岡駅のホームに降り立った時、今まで乗って来たC57の引く列車が煙を残して走り去って行ったのを覚えています。

それから地元の人は東京とか遠くへ行くのを「汽車」鶴岡の街に行くのを「電車」と呼び分けていました。

伊豆之国 さんのコメント...

国鉄の非電化幹線から電化ローカル私鉄が出ていたと言う風景は、私の少年時代にはまだごく普通に見られた光景で、東北地方だけでも、既に早いうちに消えたものでは花巻、庄内、雄勝、五城目、そしてこの高畠…。更に不思議だったのは、山交のもう一つの電化路線・三山線。国鉄の行き止まりローカル線から電化私鉄が出ているのと言うのがよくわからなかったのでした。これらの路線は結局どれも見ることもないまま消えて行ったのでした。割と最近に消えた栗原とか十和田観光や、今も健在の弘南、大鰐、飯坂も、その頃にはそんな感じの路線だったのでしょう。
なと。さんがおっしゃられていますが、非電化が多かった国鉄線を「汽車」、電化ローカル私鉄を「電車」と呼んでいた地方は結構多かったのでしょうか。出雲市内の山陰線と一畑電車が並行している区間に、一畑電車が通過するときには「電車」、JRの列車が通過するときは電車特急でも「汽車」と言う表示が出てくる踏切があって、"You Tube"の動画のリクエストが実に500万回を超えるという超有名な場所だったそうですが、残念ながら数年前に道路工事で警報機が取り替えられ、表示も「JR」「一畑」と変えられてしまっています。
糠の目駅は今は「高畠」駅に改称されていますが、同様に廃止になったローカル私鉄にあった、その町の中心にあった駅名を、後に別の駅名だった町の入り口にあるJRの駅を改称して、今度はこちらが町名を名乗る駅になった、と言う例としては、越後線の「寺泊」も同様でしょうか。

katsu さんのコメント...

なとさん
庄内交通も高畠線と似ていますね。
汽車と電車の使い分けは電化非電化に関係なくそう呼ばれたりして面白いですね。
JRで長距離列車はもう汽車とは呼ばないのでしょう。
今は電車と言うのですかね。

katsu さんのコメント...

伊豆之国さん
沢山の面白い話題ありがとうございました。
山交の三山線、私も不思議に思っていました。
非電化ローカル線の左沢線から出ていた電化線。なんじゃこれはと2回訪問しました。
汽車と電車の用語使い分けた踏切が面白いですね。

どこでもローカル私鉄は電化/非電化どちらも電車と呼ばれていたようです。
松本清張のゼロの焦点の中で北陸鉄道能登線(非電化)を電車と書いてありました。
これを電車ではないとヤボなことを指摘する人はいなかったでしょう。
国鉄も電化/非電化にかかわらず長く汽車と呼ばれていたと思います。