駿遠線と言えばお馴染みの蒙古の戦車。しかしDB601はあまり馴染みがなく私も動いているのを見たことがありません。以下は駿遠線の逸話と資料集「駿遠線物語」の著書 中村修さんから戴いた図面と車両解説です。
DB601原型
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DB601 1953年改造
DB601昭和26(1951)年5月、自社大手工場製の改造第1号機。廃車となったB7形蒸気機関車7号機の足回りを転用し、蒸気機関(ボイラーやシリンダー類)をディーゼル機関(エンジン)に換装した形となった。自重7トンのB凸形で、全長5,047ミリ、動輪径610ミリ。機関は金剛のDA60を装備し、出力110PS、回転数2,200rpm、牽引重量47トンだった。その後昭和28(1953)年11月に改造認可を得、車軸配置B1をBとし、全長5,130ミリに改造された。 解説:中村修さん
蒸機下回りを利用したディーゼル機関車への改造は森製作所などでよく行われていたが、駿遠線は全て自社工場の改造であり、改造当初のDB601は下回りに蒸機時代の名残を残していた。その後、少しづつ改造を進め最期は相良で見た姿であった。
もっと凄いのはDB605で、晩年には車体を実質的に振り替えDB606に改番された。そして、赤穂鉄道からきたDC102を改造した別のDB606もいたので、訳が分からなくなってくる機関車である。
もっと凄いのはDB605で、晩年には車体を実質的に振り替えDB606に改番された。そして、赤穂鉄道からきたDC102を改造した別のDB606もいたので、訳が分からなくなってくる機関車である。
上の図面に近いDB601(前から見る) 袋井 1963.4.4
相良で見たDB601(後から見る) 1966.9.23
袋井で見た3年後、前部の外装が改造されていた。
6 件のコメント:
このたびは駿遠線DB601号機の、歴史に埋もれた「変身」の事実をアップしていただき、ありがとうございます。同機は石炭代高騰に悩んでいた時代に、コッペル社製7号蒸気機関車を廃車し、その上回りを撤去したB型車軸配置の台枠を基に製造されました。当初はディーゼルエンジンと変速機を直結し、その端にキャブを置いたL型機としました。しかしこれは重量配分の関係から、従輪を要するB1型となってしまいました。
同機の方向転換には、当時沿線主要駅にあった転車台(ターンテーブル)を使用していました。しかしこれらの転車台は、元々B型蒸気機関車用のものでした。このためB1型では長さが不十分で、それこそ数センチ単位の停止位置調整が必要でした。これを誘導するのが、運転手と車掌のコンビネーションでした。昼間は緑色と赤色の旗振誘導、夜間は白色灯と赤色灯切替の灯火誘導で、雨の日のスリップにも相当悩まされました。また人間関係にも問題がありました。すなわち運転手は機関士(1級ボイラー技士)上りの年配者で、車掌は中学卒くらいの若輩者で、とかく意思疎通に問題があったのです。
これを解決したのが、元中遠鉄道の袋井工場でした。ここではB型台枠の前方にエンジン、後方に変速機を配置し、中間にキャブを置く凸型機としました。これで従輪は不要となり、B型に収まって転車台問題は一気に解決しました。ただし運転台の足元では、シャフトが高速回転していたのです。先に製造した元藤相鉄道の大手工場でも、これを基に凸型機を量産し、両工場合わせて続々とDB60形が配備されました。そしてB1型車軸だったL型の601号機も、やがてB型車軸の凸型機関車に変身、いや再改造されたのです。
ちなみのこれらの図面は、元大手工場長だった山本さんという方が所有されていました。その方のお話によると、製造当初に現物機が出来上がった後、静岡鉄道本社から原さんという学卒社員が来られて採寸し、本社で図面を起されたそうです。すなわち実機が先で、図面は後からだったのです。これも工場現場に高い技術力があったからだと、山本さんは述懐しておられました。このような事実が、駿遠線のDB601号機には隠されています。このたびは埋もれ行く真実をアップしていただき、誠にありがとうございました。
匿名さん
DB601に関し更なる詳細な情報をありがとうございました。
蒙古の戦車について「駿遠線物語」には書かれていない逸話が続々出てくるのには驚きます。
DB機関者は製造図面などはないのでしょう、図面は監督官庁提出用だと思います。
試作も量産もない一品料理なので、いきなり現物合わせで作ってしまうのですね。
ところで、DB604のブタと衝突の件やバックギヤで走行の愉快な逸話は、
もしよろしければ紹介させてもらいたいです。
Katsu様
コメントをいただき、ありがとうございました。駿遠線は廃止後すでに約半世紀、その関係者の多くが鬼籍に入られました。そこであらゆる機会を得て、その公共交通機関としての功績と、軽便鉄道としての「逞しい生き様」を次の世代に伝えたいと願っております。これは次世代の地方交通に対する『種の保存活動』であり、軽便鉄道という選択肢が近未来の交通機関の担い手として、それこそ新LRTとしての復権を願うものです。それには地球温暖化対策としても、エネルギー効率の点からも方向性があると信じております。
いささか大げさになりましたが、豚との衝突事故の顛末や、バックギア走行の事実など、Katsu様からご紹介をいただけましたら幸いです。ことに前者は、日本全国の鉄道事故としても異例中の異例で、自重5tほどのDB60形が重い客車列車を牽引していた。しかも直通ブレーキも無く、機関車の空気ブレーキだけが頼りだった事実。いかに乗務員というか、「人の力」が鉄道という地域交通を支えていたかという真実の証ともなります。
今の若い方々に鉄道という公共交通の魅力と実力を知っていただくため、もし出来ることがありましたら何なりと協力をさせていただきます。今後とも何とぞよろしくお願い致します。ありがとうございました。
YouTubeに「静岡鉄道 駿遠線 1-3」の三部作の映像がアップされておりますがご覧になられましたか?
その中にDBの牽引風景が記録されていますが、エンジンカバーが車体幅一杯なので601ではないようです。
大手駅とか、新藤枝、大井川、袋井等撮影時の昭和41年にあった駅や車両の殆どが記録されています。
以前アップロードされていた大井川木橋も出てきます。時速10キロで恐る恐る渡る場面が見応え有ります。
匿名さん
では、この件に関してご相談させてもらい記事にしたいと思います。
DBが牽く列車の転覆事故でありこれまで控えていました。
toshiさん
youtubeの紹介ありがとうございました。
駿遠線の動画がいろいろあるのですね。
まだ全てをしっかり見ていませんが、乗客がやたら多い場面にあの時代がよく表れています。
昭和のよき時代、地方私鉄の良き時代を動画で見ると何故か物悲しくなってきます。
目には見えない良き時代の日本がそこにあるのでしょう。
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