このDB605はブタと衝突して川に転落、複雑な改造遍歴と改番、そして大手支線のバック運転走行等々逸話が尽きない機関車です。
DB605がバック運転で大手支線を新藤枝へ向かう。 1962年8月
よく見ると他のDBと違って運転席が横に向いている。
バック運転走行の件ですが、逆転機がない端単式の蒙古の戦車はクルマと同じようにバックギヤで短距離なら走れる。バックで短距離の大手支線を走行したのがこの写真。そういえば沼尻の端単式ガソもバック運転で走っていました。後進ギヤが焼き付かなかったのでしょうか。
以下の画像は以前に紹介済み画像です。
中村修 著 「駿遠線物語」袋井工場物語の表紙にあったDB605の写真.
「駿遠線物語」著者によるDB605の解説と逸話です。
この機関車の前位ボンネット内には変速機、後位にはエンジンで、逆転機はありませんでした。すなわちこの列車は、バックギアで走行していたのです。ちなみに運転台の座席も、移動式の丸椅子(派生品応用)だった可能性があります。
駿遠線のDB60形機関車は、大型バス用の自動車用品を多用して製造されました。自動車用品に逆転機は無く、これだけ高価な鉄道用品を使用する訳には行きませんでした。このため一連の同機は、転車台(ターンテーブル)での方向転換を前提に、ディーゼル機関車ながら逆転機なしで製造されていたのです。
一方でこの列車の始発だったと思われる大手駅の転車台には、不思議なことがありました。おそらく水脈の上にあったのか、大雨や台風などの後で晴天になると、コンコンと清水が湧き出すのです。その水はやがて引くのですが、この幻の清水は、城下町藤枝一の名水と言われました。このため当時盛んだった「お茶会」で珍重され、時には有名な家元の依頼で、着物の人がわざわざこの水を汲みに来たりしていたそうです。
もしかするとこの列車は、お茶会の「水取り」を待って発車時刻に間に合わなくなり、止む無くバック運転をしていたのかもしれません。そんなロマンが、城下町を走る軽便鉄道には許されて良いのかもしれません。遠い歴史の彼方に去って行った、DB60形牽引の不思議な列車風景。1枚の写真の裏には、このように多くの事実が隠されております。このたびも貴重なHPを拝見させていただき、誠にありがとうございました。
駿遠線のDB60形機関車は、大型バス用の自動車用品を多用して製造されました。自動車用品に逆転機は無く、これだけ高価な鉄道用品を使用する訳には行きませんでした。このため一連の同機は、転車台(ターンテーブル)での方向転換を前提に、ディーゼル機関車ながら逆転機なしで製造されていたのです。
一方でこの列車の始発だったと思われる大手駅の転車台には、不思議なことがありました。おそらく水脈の上にあったのか、大雨や台風などの後で晴天になると、コンコンと清水が湧き出すのです。その水はやがて引くのですが、この幻の清水は、城下町藤枝一の名水と言われました。このため当時盛んだった「お茶会」で珍重され、時には有名な家元の依頼で、着物の人がわざわざこの水を汲みに来たりしていたそうです。
もしかするとこの列車は、お茶会の「水取り」を待って発車時刻に間に合わなくなり、止む無くバック運転をしていたのかもしれません。そんなロマンが、城下町を走る軽便鉄道には許されて良いのかもしれません。遠い歴史の彼方に去って行った、DB60形牽引の不思議な列車風景。1枚の写真の裏には、このように多くの事実が隠されております。このたびも貴重なHPを拝見させていただき、誠にありがとうございました。
4 件のコメント:
このたびは貴重なお写真を探してアップしていただき、ありがとうございました。この機関車の前位ボンネット内には変速機、後位にはエンジンで、逆転機はありませんでした。すなわちこの列車は、バックギアで走行していたのです。ちなみに運転台の座席も、移動式の丸椅子(派生品応用)だった可能性があります。
駿遠線のDB60形機関車は、大型バス用の自動車用品を多用して製造されました。自動車用品に逆転機は無く、これだけ高価な鉄道用品を使用する訳には行きませんでした。このため一連の同機は、転車台(ターンテーブル)での方向転換を前提に、ディーゼル機関車ながら逆転機なしで製造されていたのです。
一方でこの列車の始発だったと思われる大手駅の転車台には、不思議なことがありました。おそらく水脈の上にあったのか、大雨や台風などの後で晴天になると、コンコンと清水が湧き出すのです。その水はやがて引くのですが、この幻の清水は、城下町藤枝一の名水と言われました。このため当時盛んだった「お茶会」で珍重され、時には有名な家元の依頼で、着物の人がわざわざこの水を汲みに来たりしていたそうです。
もしかするとこの列車は、お茶会の「水取り」を待って発車時刻に間に合わなくなり、止む無くバック運転をしていたのかもしれません。そんなロマンが、城下町を走る軽便鉄道には許されて良いのかもしれません。遠い歴史の彼方に去って行った、DB60形牽引の不思議な列車風景。1枚の写真の裏には、このように多くの事実が隠されております。このたびも貴重なHPを拝見させていただき、誠にありがとうございました。
詳細なるDB605の解説とそれにまつわる逸話をありがとうございました。
コメントを記事に組み込ませて戴きました。
このたびは拙文のコメントを貴ブログの本文に取上げていただき、名誉この上なく嬉しく存じます。誠にありがとうございました。
かつて駿遠線の沿線には、数々のお城がありました。駿河の田中城、遠州の小山城・相良城・横須賀城などです。東海道五十三次の宿場町藤枝は、田中藩の田中城の城下町でした。全国各地の城下町にも、独特の風情や文化がありますが、田中城下の藤枝も例外ではありません。確かに宿場町としての色彩が強く漂いますが、その伝統たる格式と気風が、駿遠線の前身である藤相鉄道の大手線を誕生させています。そしてそこには、笹野甚四郎氏という人物が、東京の大手資本に対抗して軽便鉄道敷設を成し得た、戦乱の歴史が秘められております。
鉄道に無関係な余談で恐縮ですが、この田中城にも歴史上の秘話があります。それは神君家康公入浄の原因が、鯛(一説には鯉)の天ぷらを食した事だった言われています。その「天ぷら」を食したのが、この田中城でした。このとき家康公は、美味のあまり真鯛2枚・甘鯛3枚を食したとされますから、消化不良を起したことに間違いはありません。駿遠線にはDB60形ばかりではなく、このような歴史ロマンが多数秘められています。
相次ぎますコメントで、しかも鉄道とは無関係な話題に及び恐縮です。今後とも宜しくお願いを申し上げます。
匿名さん
駿遠線沿線の歴史背景をありがとうございました。
ユニークなDB60シリーズが生まれた背景にその土地独特の文化があったのかもしれませんね。
転車台とお茶会とバック運転、もしかしたらの話など実に愉快です。
コメントを投稿