案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2013年9月6日金曜日

遠鉄奥山線 最後の日-3

1964年10月31日の最終日は最終列車で花束贈呈があり秋の暗闇にひっそりと消えた奥山線であったが、その翌日には遠鉄浜松駅の奥山線ホームを会場にして奥山線廃止の式典が大々的に行われた。
思い入れがあった奥山線だけに最後まで見ておこうという気持ちがあってか関心薄い翌日の式典まで居残ってしまった。この日の会場の看板を見ると「奥山線営業廃止 代行バス運転開始 式」とあり、代行バスの運転開始のテープカットが行われバスの行先には奥、曳馬野、都田口、気賀口が表示されていた。
当時の道路はまだまだ整備されてなく大変な砂利道を走った代行バス路線であったと思われる。
今の遠州鉄道細江営業所のバス路線に奥山線45番があり浜松から奥山まで、あの時に開通した代行バス路線がその後経路変更があったとしても50年経った今も走り続けていることになる。

今の奥山線45番 浜松駅 - ゆりの木通り - 市役所南 - 三方原 - 金指 - 井伊谷 - 竜ヶ岩洞入口 - 奥山

 気賀口発の最終列車 1964.10.31

 曳馬野発の最終列車.

翌朝、元城車庫に集結した車両. 1964.11.01

翌日に遠鉄浜松駅で行われた式典. 1964.11.01

式典に元城車庫からやってきた電車

代行バス運転開始のテープカットを見に来た地元の人々や近所の子供達. 遠鉄浜松

6 件のコメント:

SME さんのコメント...

 こんばんは。 写真のキハ1804を見ると、車体が花巻に行った時の「コカコーラ」広告バージョンを思い出します。よくよく考えてみると、軽便で今の江ノ電チックに全面広告を入れた例が少ないだけに先駆者にも感じます。
 奥山線も電化区間を見ると、編成的に「とってつ(越後交通)」に通じるものが有りますね。 ただ、ブレーキ管(?)又は引き通し線(?)が有る所が軽便としては進化形に見えました。

katsu さんのコメント...

SMEさん、こんばんは。
黄色に塗られたコカコーラ広告のキハ1804を見に花巻電鉄まで行きましたが殆ど使われていない状態でした。一方のキハ1803は尾小屋鉄道で活躍し今は動態保存されているそうで、譲渡先により大きく運命が別れましたね。
奥山線の車両には貫通ブレーキや自連が装備されていて軽便としてはけっこう進歩的でした。奥山線を近代化して存続させていく考えがもし会社にあったら遠州鉄道は一体どんなことをやっていたでしょうか。

影武者 さんのコメント...

>遠鉄バス奥山線
鉄道が1923年全線開通1964年全線廃止ですから、なんと代行バスの方が鉄道の運行期間を上回ってしまっています。鉄道の部分開通から見ても50年対49年でほぼ同じ。
現存車はキハ1803だけとはいえ、今でも動いているのは奇跡的と言えますね。もし仮に奥山線が近代化されていたなら金指止まりの西鹿島線という感じになっていたのでは?

katsu さんのコメント...

影武者さん
そうでしたか! 鉄道よりもバスの方が長期間運行されていたとは気がつきませんでした。
もし奥山線が軽便遺産を何両か大切に保存し、先進的な西鹿島線に生まれ変わっていたら楽しいでしょうね。

とん さんのコメント...

初めまして。
浜松在住のとんと申します。

奥山線の記事についついコメントをしてしまいました。
と言っても廃線されたのは自分が生まれる前の話ですが。

現在の旧奥山線沿線の状況を見ると廃線がもったいないくらい発展しています。
道路も渋滞が多く鉄道があればと思います。

ただ奥山線はナローゲージのため輸送力に問題があり今後の発展を考えてバスに転換したという噂もあります。
地方私鉄である遠州鉄道には改軌するだけの体力は無いと思いますし。

奥山線の廃線跡は金指駅くらいまでは道路に転用されているところが多いため現在でも確認することができます。
一方で西鹿島線の高架によって廃線された新浜松駅からスイッチバックの馬込駅を経由して遠鉄浜松駅(現在の遠州病院駅)までの跡は区画整理によって現在では全く確認できません。

古い奥山線の跡が残っていて新しい西鹿島線の跡が消えてしまったのは興味深い事だと思います。

katsu さんのコメント...

とんさん
はじめまして。
旧奥山線沿線の発展は凄いですね。13年前に見て来ましたがその後も更に発展を遂げていることでしょう。
奥山線の廃線跡は各所に残っているようですが、谷~祝田~金指あたりは現在の国道257号の線形に昔の線路の面影をよく残していると思います。1964年の奥山線廃止により線路と並走していた砂利道が一気に整備され沿線開発も同時に一気に進んだのではないかと推定します。