案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2013年1月28日月曜日

玉電風景 大橋

大橋の商店街風景をよ~く見ると精肉・鮮魚店の脇に電車が顔を出している.
ここが大橋車庫の入出庫線であった.  1969.04.22

道路を横断し商店街の間を大橋車庫へ入って行くデハ200形.

大橋停留場の向こう高台の木立の中に氷川神社が見える.

「連結2人のり」が表示された連結運転車. 大橋停留場

大橋停留場風景

下高井戸行きのタルゴ式連接車も乗客が溢れていた.  1969.04.22

車庫に休むデハ80形と30形.  1962.12.07

最古参のデハ30形.1965(昭40)年から予備的存在に. 1962.12.07

8 件のコメント:

ottoseiji さんのコメント...

タルゴの乗り心地は最低。特に連接部は1軸でレールのショックがそのまま。さらに横揺れがひどくつり革が網棚の金具にあたるほど。さらには満員の時体は入っているのに足が扉のRに引っかかってどうにも閉まらず発車が遅れることしばしば。デザインだけが先行して実用にならなかった見本のような車体でしたね。引退が早かったのも頷けます。東急車両の先進的な姿勢は好きでしたが。

katsu さんのコメント...

ottoseijiさん
普段 生活の足として利用されていたタルゴはそうでしたか。
趣味の目線でしか知らない私にはそんな欠点に気付きませんでした。
趣味として見ると楽しいタルゴでした。
ユニークな外観と構造のタルゴをO番で製作した趣味誌の記事が忘れられません。

YamaChan さんのコメント...

初めまして、『鉄道花鳥風月』のYamaChanと申します。
玉電、とっても懐かしいですね。小生、高校2年まで通学で使っていましたが、あえなく廃止になってしまいました。
三軒茶屋や大橋も、想い出が蘇ります。
ところで前のスレッドの最初の「上馬」ですが、あの場所は「桜新町」で下り電車ですね。
バックの「宮田家具」や「品川信用金庫」が写り込んでいます。
私は一つ手前の「新町一丁目」が最寄りの電停でした。
「二子玉川園」の航空博は、確か小学校5年生の時に親に連れて行ってもらったと思います。
貴重なお写真をありがとうございました。

katsu さんのコメント...

YamaChanさん
ご指摘ありがとうございました。
メールにてご指摘された方もあり
申し訳ありません、上馬を桜新町に訂正させて戴きます。
撮影場所に決め手となるものがなく自信無かったので不明とすべきでした。
桜新町で撮った別の風景を良く見ると確かに「宮田の家具」の看板が写っていました。

伊豆之国 さんのコメント...

どうもはじめまして。
以前からたびたび覗かせていたのですが、今回初めて書き込みさせていただきます。東京は世田谷生まれ、現在は町田市民の中年おじさんですが、Cedarさんのブログを初め、他の「鉄ネタ」サイトで名乗っている、親父の故郷にちなんだHNをこちらでも使わせていただきます。

さて、ここ数回のシリーズになっている「玉電」。246のすぐ近くで少年時代を過ごしたので今も特別な思い入れがあり、「世田谷線」という呼び方にもいまだなじめずつい「玉電」といってしまいます。今回の200型ですが、運転台が左側半分だけで右側の最前部まで座席があり、「特等席」としていつも子供たちの間で「争奪戦」になっていたことを今も懐かしく思います。

YamaChan さんのコメント...

管理人さま
早速のお返事ありがとうございました。
指摘だなんて滅相もございませんです。
ただただ懐かしいの一言、青春時代が蘇りました。

桜新町は、交差点を少し入ったあたりに小学校の同級生が何人も住んでいました。
「ふたばや」や「山澤薬局」も同級生でしたが、今はどうなっているのでしょう?
昨日記述した「品川信用金庫」は「芝信用金庫」の誤りです。
「品川信用金庫」は、当時住んでいた新町にあった建物で勘違いしていました。

三軒茶屋には当時良く出掛けていたので、お写真を拝見し、
自分や家族が写り込んでいないか、穴が開くほど見入ってしまいました。(笑)
玉川通りの三茶電停のバックに写り込んでいる「パチンコ白鳥」には、母親が良く通っていました。
道路を渡った反対側は3本立ての映画館でした。

「用賀」の引き込み線は砂利(バラスト?)置き場になっていて、無蓋貨車トが何両か留っているのを見た事があります。
何回か無蓋電動貨車デトも見た記憶があります。

懐かしさのあまり、長々と失礼しました。

katsu さんのコメント...

伊豆之国さん
Cedarさんのブログなどでよくお名前(HN)を拝見しています。
今までコメント戴いた中で子供時代が玉電沿線だったという方がほんとうに多いですね。
多くの鉄道ファンが集中した路線ではないでしょうか。
子供時代に乗った200形の思い出が楽しいですね。
記念館に保存されている200形で、私もその特等席に座りました。
私には200形の思い出が何もないのは、余りに近代的?に思えて無視してしまったのかも知れません。
惜しい事しました。

katsu さんのコメント...

YamaChan さん
いろいろと沢山の思い出をありがとうございました。
桜新町界隈の同級生の懐かしい思い出などは玉電と被さるのでしょうね。
三軒茶屋の街並も、その後を知らない私にとっては玉電がある光景しかありません。
路面電車の風景は街並や人々が写し込まれるので、自分の事はさておいて
あの頃の子供達が今では50代になっている事などを思うと楽しくなってきます。
用賀では、あの引込線で遊んでいる写真に幼い時の自分を見つけて報告してくれた方もいました。
この引き込み線はバラスト置き場だったのですか。
二子多玉川園駅で見た無蓋貨車はやはりバラスト運搬に使われていたようですね。
あの無蓋貨車を牽く電動貨車デトの風景を見たかったものです。